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わが心の近代建築Vol.28 横浜市イギリス館/神奈川県元町中華街

みなさん、こんにちわ。
メンタル不調も多少は緩和。今回は、横浜市の元町中華街駅界隈にあるフランス山を登り切ったところ、イギリス山(港の見える丘公園)にある、横浜市イギリス館について記載したいと思います。

まず、横浜の歴史を記載すると、1853年にペルリ提督が神奈川県浦賀に来航し、幕府に開国を要求。結果、1854年に日米和親条約、1957年に日米修好通商条約を締結。
幕府側は当時、寒村の1つに過ぎなかった横浜港を開港し、現在の国際都市・横浜が始まります。

ペルリ一行の上陸【Wikipediaより転載】

が、幕末期の1862年に起きた鶴見市生麦村で起きた「生麦事件」など、当時の日本は攘夷派の外国人殺傷事件が続発。フランスは、イギリスとともに軍隊の居留を決定。1863年にフランス海兵隊が横浜に上陸、以降1875年に至るまで横浜に駐屯します。その場所が現在の「フランス山」にあたり、その上部をイギリスが使用。

『生麦之発殺』(早川松山画)【Wikipediaより転載】
明治になって想像で描かれた錦絵で、名前が出ているのは島津久光と小松帯刀のみ。当時は久光の武勇伝として一般に知られていた。

なお、軍隊が撤収ののちは、フランス山にはフランス領事官邸と領事館が。イギリス山にはイギリス海軍病院とイギリス総領事公邸が置かれます。が、横浜の街も関東大震災が襲い、消失。

関東大震災の横浜地中区の惨状【Wikipediaより転載】

フランス官邸は1930年にスイス人建築家・Mヒンデルの手で領事館が建立(1947年に焼失)、イギリスも1937年に英国工務局上海事務所の手で公邸が建立されます。
1942年にフランス総領事館敷地などはフランス領として。イギリス総領事館敷地はイギリス領として日本国が召し上げ、英国総領事館では1942年に春にマウヴィティー代理領事らが収監。以降、総領事館は主なきまま終戦し、戦後、その敷地は各国により接収。
イギリス領については1969年に総領事が本国に引き上げた際、総領事館含め横浜市が競売で買収。フランス領についても、1971年に横浜市がフランスから買い取り、2つをつなぎ合わせた形で「港の見える丘公園」として整備。今日では、「あぶない刑事」などのドラマロケ地やデートスポットとして、横浜の中でもトップクラスの観光スポットになっています。

港の見える丘公園から横浜港を臨む

港の見える丘公園の景観:
状況によっては、ここからスカイツリーなども臨める横浜のビュースポットになっています。

建物メモ
横浜市イギリス館(旧英国総領事館公邸)
●竣工:1937年
●設計者:大英帝国工務局上海事務所
●文化財指定:横浜市指定文化財
●写真撮影:可
●入館料:無料
●休館日:第4水曜日(祝日は開館)
●参考文献:
 ・田中禎彦編「死ぬまでに見たい洋館の最高傑作」
 ・はまレポ【横浜の名建築】横浜市イギリス館
 ・歴史などはWikipedia、建物については展示パネルを参照
●交通アクセス:みなとみらい線「元町中華街」駅より徒歩7分
●留意点:
ホール部分などは貸出されており、見学の際は事前に予定確認必須

正門部分:
かつての英国総領事館公邸時代のもの。
邸宅までは緩やかな坂道になっており、カーブを描いて邸宅に入るようになっています。
左側の鉄柵部分は、使用人用の出入り口になっています。

使用人用出入口:
先述の左側部分で、使用人の方は植え込みを目隠しとして、使用人付属室にたどり着きます。
階級社会だった大英帝国らしい設計で、公邸時代奥の方が出入りしたことが伺えます。

正面外観:
建物はイギリス山の一番高い部分に位置し、大小様々な窓が配置。洗練されたデザインの中にも、曲線部分や柱など、伝統的な部分も見られ、左側部分は使用人室になっており、畳敷きの部屋もあります。(現在非公開)
建築資材には、竣工当時、関東大震災で安全性が証明された鉄筋コンクリートを使用。その厚さは40cmと言われています。

玄関ポーチ:
玄関ポーチ部分は伝統的な設えで、4本の「束ね柱」に支えられ、玄関部分の照明は竣工当時からのものになっています。
また、扉部分はガラス扉と木製扉の二重構造になっています。

玄関ポーチ脇の銘板:
玄関わきには小窓が2つ嵌められ、その間に王冠の描かれた銘板を見ることができますが、1937という数字とGRと記載…
これは英国王ジョージ6世の御代に作られたことが記されています。
ジョージ6世は、兄・ウィンザー公がシンプソン夫人との恋で退位した後に即位した国王。英国史上最も内気な国王といわれ、吃音から演説を苦手としていたものの克服、その姿は映画『英国王のスピーチ』に描かれ、愛妻エリザベスとともに現在の英国王室の礎を築いた人物でもあります。

ジョージ6世(1895~1952)【写真はWikipediaより転載】:
大英帝国国王で、エリザベス女王の父。
上記の理由から本人の予期せぬまま英国国王に選出。
妻エリザベス・ボーズらとともに吃音を克服。
太平洋戦争では、バッキンガム宮殿にとどまり、首相Wチャーチルと手を取りあって国民の士気を鼓舞し続け、今日の大英帝国の礎を構築。
しかし、太平洋戦争での心労がたたり、またヘビースモーカーだったこともわざわいし、1952年2月に就寝中に天逝。わずか56歳のことでした。

南面からの景観:
正面1階のベイウィンドウ(出窓)を中心として左右対称にデザイン。また、2階両端には、今までの石造りや煉瓦造りでは不可能だった丸窓が搭載。
丸窓の意匠としては、設計したのが、英国工務局上海事務所ということもあり、船の丸窓に見立てたためとも言われています。

北側にあるボウウィンドウ:
局面で弓型に張り出した窓。典型的な洋風住宅の技法で、イギリスの邸宅で使用されたものが、幕末に神戸や横浜、長崎などの居留地に伝わり、震災以降、横浜山手の西洋館で広く採用。
外観のデザイン以外にも採光や通雨の効果が高まります。

エントランスのスカイライト:
まず、この邸宅の扉はガラス扉と木製扉の二重構造になっていて、鉄扉にはアイアンワークが施されています。
また、天井部分の丸いスカイライトからは暖かい光が差し込み、デザイン的にもアールヌーボー調になっています。

平面図【図面はWikipediaより転載】:
まず、左側の張り出した部分は、使用人の部屋で、メインルームと差別化され、暖房機などもついていない状況。一部に畳敷お部屋があったとのこと。また、地階部分はワイナリーなどに使用。
双方とも非公開エリアになっています。

エントランス部分:
天井の照明も、竣工当時からのもので、右サイドは現在女子トイレになっていますが、竣工当時はクロークとして活用。特に女子はこの部分は見て貰いたいものです。

女子トイレの取っ手部分:
先述の元クローク部分。
取手も竣工当時の姿を残す貴重なものになっています。

1階廊下部分:
キッチンに繋がっており、左側の丸い窪みは西洋建築では「ニッチ」と呼ばれ公邸時代には、先述のジョージ6世の肖像画が掲げられました。

1階旧応接間:
この部分は、食堂と繋げられ1つの部屋として活用。主に司祭たるや練習場として市民に貸し出されています。また暖炉は竣工当時のものになります。

1階サンポーチ:
半円形のボウ・ウィンドウが設えてあります。
採光に配慮されており、柔らかな半外部空間に設えています。
執務室・書斎部分(現事務所)に接しており、喫茶室や休憩室の用途で使用されたことが推測されます。

1階旧食堂:
現在は、応接室とともに、1つの部屋として活用され、市民に貸し出されています。また、配膳室と接していましたが、改修時、耐震のため壁が設けられ、配膳室はバックヤードとして使用されています。

1階配膳室:
食堂と隣接しており、2つの大きなガラス棚は竣工当時のもの。
主には以前や盛り付けなどとして使用されました。

1階配膳室のタイル:
センター部分が膨らんだタイルは頻繁に目にするものの、イギリス館のタイルは、中央部分がへこんだ非常に珍しいもので、そのこだわりを感じさせられます。
また、角部分はアールに沿ってあり仕事の丁寧さを感じます。

1階厨房:
公邸にしては氏諫めな厨房。
右側のガスレンジは現役で稼働し、壁のタイル部分に茶色いものを使用してアクセントを付けているのも特徴的。

1階階段部分:
踊り場の大きな窓からは、廊下に光が差し込むデザインに。
また、左側の階段親柱、手すりには1階女子トイレ部分の取手にみられrた巻貝のようなデザインが施されています。
また、階段を上ると、登るたびに音が鳴るようになっていますが、これは防犯を考え、わざと音が鳴る仕組みになっています。

2階階段ホール:
天井部分は非常に高く採られ、広さを感じさせます。
また、踊り場の窓から光が差し、非常に明るくなっています。

2階集会室(旧寝室):
ひとり用にしては広く、バスルーム(現在の物置)や暖炉が備えられていることから、賓客用か子息室に使用されたと考えられます。

2階寝室(旧寝室):
創建当時は2人用の寝室として使用されており、前室を通って寝室に入るアプローチや暖炉が備え付けられていることから、総領事夫妻が使用したと考えられます。
また、暖炉は創建当時のもので、、木枠にタイルが嵌め込まれた非常にシンプルなデザインになっています。

2階 休憩室(旧スリーピングポーチ):
先述の寝室に附属した部屋。
竣工時には、スリーピング・ポーチと名付けられました。丸窓は、当時の海外渡航の主流だった船室をモチーフにしたと考す。

2階控室Ⅱ(旧化粧室):
先述の寝室/スリーピングポーチに付属する部屋で3部屋で一つの指針室として使用されました。(バスルームは現在の男子トイレ)
左側の照明は竣工当時からのもので、この室内は用途上、カーテンを閉めて使用されることが多かったためカーテンボックスは2重になっています。

2階控室Ⅰ(旧寝室):
創建当時は1人用の寝室として活用。この寝室は、他の寝室と違い、奥まった場所にあり、来客の多い際、臨時的な寝室として活用されました。現在は、ホール利用者の控室として使用されました。

2階展示室:
寝室の向かいに位置する部屋。
寝室と違い、化粧室は隣接せず、現在は、ホールになった食堂の状況を再現しています。

2階スリーピングポーチ:
先述の寝室に付属した休憩室と対をなす部屋で反対側に位置します。寝室側はバルコニーが付けられていたものの、こちらに発設けられていません。

【編集後記】
イギリス館は、その設計者や歴史的背景など…
日本でも数少ない、本物の大英帝国設計の建造物を拝見できる珍しい場所になっています。
また、頻繁にリサイタルなどが行われているため、機会があれば、それらも楽しんでみてはと感じる次第です。

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