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わが心の近代建築Vol.17 清泉女子大学本館(旧島津公爵邸)/東京都五反田

皆さん、こんにちわ。
今回は、かつて島津公爵邸だった清泉女子大学本館について記載します。
清泉女子大学本館のある場所は、高台にあったことから、かつては「袖が崎」と言われ、この地より海を隔てて房総の山々を臨める場所でした。
江戸期には旗本領を経て、鯖江藩間部家の屋敷が置かれます。1737年には仙台伊達家が所有、130年にわたり、周囲の土地合わせ2200坪、下屋敷に利用されました。

江戸末期の品川/高輪の状況(2代目)歌川国輝/東京江戸品川高輪風景(1868年)【国立博物何HPより転載】

明治になり、1875年ごろから元薩摩藩主・島津忠義の所有となり、1897年に忠義公が亡くなったのちは家督が忠重に継がれ、1906年に、松方正義を中心とした旧薩摩藩士たちで構成された島津家顧問団が中心になり、天皇陛下の御行幸を仰ぐ計画が行われました。
設計者には、「近代建築の父」と謳われたジョサイア・コンドル氏が就任。コンドル氏については、松方正義の本邸と別邸を担当した間柄で、島津家側との窓口には、旧薩摩藩出身の司法省技官・山下啓次郎氏が充たります。
また、通常コンドル氏は室内装飾も手掛けるところ、こちらも旧薩摩藩出身の黒田清輝が担当し、島津家本邸建設は、旧薩摩藩挙げての一大プロジェクトでもありました。

コンドルは1907年には最初の本邸計画案を提出していますが、当初は大変規模の大きい、外観も重厚なネオルネッサンスの大邸宅でした。玄関に入ると正面に大階段のあるホールがあり、その奥に吹き抜けのある大広間を備え、およそ50人は収容できる規模でした。外観も古典的な意匠を用い、左右対称で外壁は基石を積んだもので、これだけの重厚な大邸宅は、彼が初期に設計した有栖川宮邸くらいなもので、そこからも、いかにコンドルが島津家を特別視し、迎賓館を兼ねた邸宅にしようとしていたかがよくわかります。(有栖川宮邸に関しては空襲により、消失しました)

コンドル氏が設計した有栖川宮邸(1885年)[【Wikipediaから転載】

その数年後、2試案の図面が作られ、当初の予定とは違う邸宅…
現在のものが思案されました。建築は1911年に開始し、明治天皇の崩御などもあり、工期に遅れが生じ、1915年に建物が完成。翌1916年末に黒田清輝による内装が終了。なお、1917年5月に大正天皇・皇后の御行幸が行われました。

1917年5月1日の新築披露園遊会【清泉女子大学HPより拝借】

島津家は洋館完成後も通常は永田町邸に住み、こちらを迎賓館として使用しますが、1923年の関東大震災で永田町邸が大破したのを機に、洋館を本邸として使用。
しかし1927年の昭和恐慌で島津家が大株主だった「第十五銀行」が破綻したため、土地の維持が困難になり、洋館部分を含むむ8000坪を残し、他をコクドの前身にあたる箱根土地株式会社に売却。
また、太平洋戦争の激化により、邸宅維持が困難になり、売却。そののち、1945年2月に日本銀行に買い取られ日本銀行五反田館として利用。
周囲が空襲に遭う中、奇跡的に火の粉を免れ、戦後はGHQの接収を受け将官宿舎に充てられます。
その際に、黒田清輝が手掛けた内装は改変され、接収解除後、1961年に日本銀行から清泉女子大学に売却。
荒廃した屋敷は再整備され、大学本館に活用され、現在でも、キャンパスに活用。2012年には、コンドル晩年期の名作建築として東京都指定有形文化財に選定。2019年には国指定重要文化財に選定され、今日に至っています。


たてものメモ
清泉女子大学本館(旧島津忠重邸)
●竣工年:1917年
●設計者:ジョサイア・コンドル
●文化財指定:国指定登録有形文化財
●写真撮影:可(聖堂部分においては撮影厳禁)
●交通アクセス:JR山手線/東急池上線「五反田」駅より徒歩10分
●見学方法:見学に関しては春と秋に大学から募集あり
●参考文献:
 ・田中禎彦監修 「死ぬまでに見たい洋館の最高傑作」
 ・内田青蔵著 「お屋敷拝見」
 ・YOU TUBE動画「コンドルと清泉女子大学本館」
 ・YOU TUBE動画「清泉女子大学見学(旧島津侯爵邸)見学ツアー」
など。

清泉女子大学正門:
正門部分は、もともとは旧島津公爵邸で使用され、島津邸が敷地縮小された際に現在地に移設され、正門として使用されています。
当時の御屋敷は、小高い丘の上に建つものが多いですが、島津邸もその例に漏れず、ここより小高い坂を上っていき邸宅に向かいます。

清泉女子大学本館 玄関部分:
正面玄関のある部分が張り出した構造で、ほぼ左右対称。
中央部分に玄関ポーチを張り出し、邸宅の角部分には窓廻りや2階の付け柱部分も横根沢石を用いた石張りにした非常に重厚な造りになっている一方、壁を白タイル貼りとしたためで、清楚で明るい印象を与えています。

車寄せ部分:
石積み風の角柱に、トスカナ式列柱を並べた造りになっており、上部には高覧を付けるなど、バロックの重厚な意匠になっており白タイル張りの建物にアクセントをくわえています。

清泉女子大学本館 背面部分より臨む:
清泉女子大学本館の平面図を見るとT字型になっていますが、旧厨房より臨むとその状況がよく分かります。
重厚なデザインの中に軽快さを感じさせるのは、先述のように建物全体の壁を白タイル貼りとしたためで、日本建築の洋館では、この建築が竣工した時代以降、タイル張りの建築が徐々に増えていきます。

清泉女子大学本館 ベランダ部分:
ベランダは円弧型にはみ出しており、ベランダのそれぞれ違う意匠の列柱が上下に重ねるのは。コンドル建築最大の特徴になっています。

平面図【清泉女子大学本館パンフレットより転載】:
まず、この邸宅はレンガ造で、地上2階地下1階建てのスレートおよび銅板葺き構造で、建物を平面図から見ると「T字型」になっています。1階部分を主に迎賓スペースとし、2階部分を家族の室内にしています。
なお、現在は各部屋とも教室などに活用。ただ、バンケットルーム(大食堂)に関しては、現在は聖堂に活用。そのため撮影厳禁になっています。(見学に関しては行えます)

玄関ホール部分:
右側に貼られたステンドグラスについては、中央階段にはめられた大きなステンドグラスから光を取り入れる構造になっており、光を柔らかくするため、モロッコ・ガラスが用いられています。

玄関前のステンドグラス:
玄関扉部分のステンドグラスは、全体的に花のつぼみが描かれた意匠で、アール・ヌーボー調に設えてあります。
また、欄間部分には、島津家の家紋「丸に十の字」が描かれています。このステンドグラスは、コンドルがデザインされたものを、宇野澤辰雄氏の流れをくむ宇野澤組の仕事によるものになっています。また、扉部分の床には白黒のタイルが市松状に使用されています。

中央ホール部分:
中央ホールには、大きなガラス窓が設けられており、そこからの光が降り注ぐ、明るい部屋になっています。また、階段部分など、コンドル建築の特徴をよく著しています。
また、邸宅の暖房器具は暖炉以外にもラジエーターを備えています。

1階中央ホール部分のステンドグラス:
こちらの装飾は玄関前のものに比べると幾何学的であるものの、アール・ヌーボー調の設えになっており、コンドル氏デザインのものを、宇野澤ステインド硝子製作所で設えたものになります。

1階中央ホール暖炉:
中法ホールの暖炉の上部の装飾は「スワンネックペディメント」と呼ばれる17~18世紀に流行したもので、「スワンネック」は、その形が白鳥に似ていることから名付けられたもので、同様のものが旧バンケットルーム(現・聖堂)や2階中央ホールでも見ることができます。

1階大客室(現・泉の間):
島津邸時代には大客室として使われ、清泉女子大学では、在校生や卒業生の方の談話室として利用されています。全体的に、白を基調とした室内で、天井部分の白漆喰は円形と直線の組み合わせになっており、写真左奥の扉は並列する各部屋を繋ぐものになっています。

1階「泉の間」暖炉:
暖炉上には鏡が付けてあり、姿見としての役割としてではなく、照明や日差しを反射させる採光のためのものでした。
また、暖炉中央部分には「丸に十字」の薩摩藩の家紋が設えています。

1階「泉の真」の暖炉部分の「丸に十字」、薩摩藩の家紋

1階小客室(現・応接室):
中央部分の客室は、半円状にせり出しており、窓部分には3連の半円アーチ窓が設えら、天井部分の装飾もベランダ部分に併せて楕円形に設えています。
また、ソファ部分に腰かけて外観を臨むと、窓枠に列柱部分が隠れる仕組みになっており、左右についている扉は、廊下を介さずとも双方の部屋と行き来できるようになっています。

1階主人書斎(会議室):
現在は主に会議室に充てられていますが、もともとは忠重公の書斎部分にあたります。
そのため、他の部屋の意匠とは違い、壁を腰高の羽目板で設えており、天井部分も格天井とした、非常にシックなデザインになっており、暖炉も室内に併せて黒色系のものが用いられています。

1階ベランダ部分:
トスカナ式の列柱を張り巡らせた構造になっており、男性的なデザインになっています。

1階中央ホール大階段:
バロック式の設えになっており、清泉女子大学本館の階段は、解体された「鹿鳴館」と非常によく似たものであったことが伝えられています。
階段踊り場を境に、左右二手に分かれる構造になっています。
また、階段親柱の尖塔飾りにはアカンサスの葉飾りが付けられ、階段の装飾は、職人が手彫りで掘ったものになっています。
また、右側は玄関ホール部分で、踊り場のなどから入る光を、右側のステンドグラスを通じて、玄関ホール部分に注ぐ構造になっています。

階段踊り場部分のステンドグラス:
踊り場部分のステンドグラスは、約35㎡からなる大変大掛かりなもので、コンドル氏がデザインしたものを、宇野澤組で設えたものになり、玄関部分などと同様、花つぼみをモチーフとしたデザインが描かれています。

2階ホール:
階段ホール部分に関しては、1階部分と同じく、スワンネック式の暖炉を設えていますが、装飾飾りなどは1階部分がイオニア式だったのに対し、イオニア式とコリント式を足したコンポジット式になっています。

2階021号教室(旧夫婦寝室):
主人居室部分は、現在は実際の教室として使用されており、1階部部に比べると、プライベートルームということもあり、暖炉は黄緑色のタイルが貼ってある非常にシンプルなものに設えています。

2階022号教室(旧婦人室):
小客室上にある部屋で、夫人室として使用された部屋で2階で最も格式ある意匠になっています。
その理由として、当初は大正天皇の御行幸の際に、両陛下の御休息所に用いられたためで、そののちに婦人居室として使用されました。
他の部屋と比較して、暖炉は白大理石製、カーテンレールや天井装飾など、装飾豊かなものになり、1階小客室部分と同じく、三連窓が設けられ、天井装飾も楕円駅になっています。

2階023号教室(旧予備室):
この部屋に関しては特に割り当てられず、竣工当時は予備室として子供たちの遊戯室や来客などの際に利用され、現在は教室として利用されています。

2階ベランダ部分:
1階ベランダとは異なり、こちらの列柱は、イオニア式列柱、女性的なデザインになっています。
また、床部分は白と黒の市松状になっています。また、照明は竣工当時のもので、現在は照明器具を入れて使用しています。

2階大会議室前の扉:
左側部分の閉まっている扉はダミーになっており、クローゼットになっています。目的として扉を多く見せることにより、多くの部屋があるように錯覚させる狙いがあります。
正面奥は、現在は学長櫃になっていますが、竣工当時は主人浴室になっており、浴室からは品川の海が一望できたことが伝えられています。

2階大会議室Ⅰ:
こちらは3男/4男寝室を臨んだもので、現在は壁が取り払われ、大会議室として利用されています。また、左奥側の窓は摺りガラスになっており、隣には夫人と子供たち用の浴室が備えられていました。

2階大会議室Ⅱ:
長男/次男寝室を臨んだものになります。また、大会議室の暖炉は水色のタイルが貼ってあるものが使用されています。

2階大会議室の切れ目:
2つの部屋の壁を取り払らっ他痕跡として、真ん中部分に切込みが入っています。

2階大会議室の鍵穴隠し:
旧島津邸時代、各部屋とも、鍵穴部分から室内が覗けてしまうため、このように鍵穴隠しが付けられました。

2階小会議室(旧 子ども部屋[女子]):
当初の予定では、客室に使用される予定でしたが、女子・子ども部屋に使用。こちらの3連の窓からも竣工当時は品川の海を一望できたそうです。
また、暖炉部分は、今までと違い、深緑色のタイルが使用されています。

庭園部分を臨む:
赤い葉をつけた木は楓(ふう)の木でマンサク科の植物で、樹齢200年…伊達家時代からのものになっています。また、右側部分の低木はツツジで、この界隈は昔から、ツツジの名所になっていました。

庭園部分 東屋跡:
ツツジの奥側の階段を上ると、スペースがありますが、竣工当時には東屋があり大正天皇夫妻は、ここからツツジの景観を愉しまれました。

【編集後記】
今回は、ずっととりだめていた写真を一気に使用。
今まで様々な建造物を追いかけてきましたが、清泉女子大学本館は、僕が見た中でも、指折りの感動的な建築物でした。
今回の建物はキャンパスの本館に活用されており、ガイドには学生の方があたりますが、皆様、どの方も、この建築を非常に愛しているのがひしひしと伝わってきて、今後もこの洋館が大切に使われるのを願ってやみません。

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