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わが心の近代建築Vol.11 桐生倶楽部会館/群馬県桐生

皆さん、こんにちわ!!
今回は群馬県桐生から、大正期から現在に至るまで、現役の社交クラブに使用されている桐生倶楽部会館について記載したいと思います。
まず桐生という街は、古くは奈良時代から朝廷に絹織物を収めていた街で、京都の西陣に倣い、「東の西陣」などと呼ばれていました。
絹織物に関しては江戸幕府も注目し、江戸幕府成立とともに天領とし、近隣の農村部では、養蚕が広く行われ、日光/熊谷/川越/八王子と結び、全国にも広く綿織物を広げました。
天保年間には、全国に先駆け、マニュファクチュアが導入。明治/大正/昭和期には日本の基幹産業として発展、多くの外貨を獲得しました。

今回紹介する桐生倶楽部会館も、桐生倶楽部会館も、1915年に桐生のの街づくりを担った桐生懇和会が経済的発展をする目的で、森宗作氏、金子竹太郎氏、前原悠一郎氏が中心になり創設した俱楽部で、建物もクラブ発足と同時、1917年に竣工。
その活動資金などは、会館設置費用含め。ほぼ有志の方で行われ。会の運営については、東京の日本橋倶楽部や交詢社などを参考胃に設立。
桐生織野の宣伝や桐生駅の改修、桐生郵便局内の電話設置など、桐生の街の発展に尽力しました。なお、桐生倶楽部は現役の社交俱楽部として君臨。
2013年には社団法人化され、現在の会長は13代目で会員数は約200名。
現在も桐生の発展のために活躍しています。
また、かつては敷地内に「西洋料理店・桐葉軒」があり、パーティーなどで料理が提供されていました。

なお、建物設計には、当時、アメリカなどでも賞を受賞し清水組(現在の清水建設)を退社したばかりの新進気鋭の建築家・清水巌氏があたり、彼を設計者に推薦したのが講談社社長の野間清治氏でした。
邸宅は、木造2階建て、寄棟造りの木造2階建てで建築様式には、竣工当時にアメリカを中心に流行したスパニッシュ様式が採られ、HPによると、全国的にも最古のスパニッシュ様式建造物であるとも言われています。
建物に関しても1996年い国指定登録有形文化財に選定。
また2015年には桐生市の重要文化財に選定。
建物見学会や高校生らの美術展開催など、教育の場としても現役で活躍しています。
また、桐生倶楽部では、この建物の保存のため、重要文化財化を目指そうとしており。保存に向け活動しています。

建物メモ
桐生倶楽部会館
●竣工:1919年
●設計者:清水巌
●文化財指定:国指定登録有形文化財/桐生市重要文化財
●入館料:無料
●交通アクセス:
 ・JR両毛線桐生駅下車 徒歩15分
●写真撮影:可
●参考文献:
 桐生倶楽部会館HP
 桐生市の歴史においてはWikipediaを参照
●留意点:
現役の迎賓施設として活用されているため、見学の際には電話予約し、空き状況を確認したほうが良いです

正門から臨む:
正門部分も竣工当時からのものになっています。

正面写真:
建物は、クリーム色の外壁に、赤色のスパニッシュ瓦が使用されており、煙突は4つあります。

3連アーチ窓風の意匠:
実際には窓はないもののスパニッシュ風のアーチ窓風になっています。
また下部には不思議な装飾にも目が行きますが、真ん中部分には桐生の「K」の文字が描かれています。

1階窓付近の装飾:
建物の1号室あたりの窓には、不思議なかわいらしい模様が描かれています。

庭園側から臨む:
ちょうど、建物の裏側から臨むと、4本の煙突部分は非常に高く設えてあり、庭園部分が完成した昭和30年代には、この部分で園遊会が行われ、テラス部分では舞が披露されました。

エントランス部分:
両端には列柱を、真ん中には2本の円柱が支えています。
また、上部の「桐生倶楽部」とある両脇には、小さくてわかりづらいですが、魔よけの為のライオンが描かれています。

玄関部分:
床面はタイル張りになっており、玄関口はアーチ型になっており、双方には、アーチ型の窓が設えています。

1階エントランスの靴磨き:
竣工当時からある靴磨き。
なお、桐生の風土から竣工当時は下駄の方も非常に多く、下駄の入場に対する喚起がなされています。

竣工当時の平面図:
現在とほぼ内容は変わらないものの、一部の部屋で改変された部分などが存在します。特に1階部分のホールなどに大きな改変がみられます。

1階ホール:
現在のような用途になったのは昭和30年代のころでロビーは社員たちの憩いの場として、待合室としても使用されました。また、右側の柱部分は鉄製で耐震のため後日つけられたものになります。
また、この部分には近隣の喫茶店が出張し、カウンターからコーヒーなどを提供していました。
また、桐生倶楽部ではメイドさんを雇っておらず給仕は近隣の芸子さんが行いました。

1階ロビーのシャンデリア:
ロビーのシャンデリアには、桐生倶楽部のモットーの幸福/平和/親睦と描かれており、こちらには幸福と描かれています。

1階ロビーのシャンデリア:
上の写真同様、こちらには、平和と描かれています。

1階ロビーのシャンデリア:
同様に、こちらには親睦と描かれています。

1階1号室:
竣工当時は、当時の社交場には欠かせなかった撞球室(ビリヤード場)に利用。ビリヤード台が2台置かれ、大きな窓から採光が得られる部屋になっています。
撞球室ののちは、会議室として使用され、桐生の街についての今後の意見が交わされました。
天井部分は漆喰塗、廻り縁状になっています。

1号室の暖炉:
こちらの暖炉は、赤レンガ風のタイルが貼ってあり、上部には2本の列柱に見立てたものが、またスパニッシュ様式らしく、ライオンが設えています。

1階2号室:
玄関に一番近い部分にある部屋で、現在は優しい柄のクロスが貼ってあり、会議室として使用されています。昭和30年台には円形の机が置かれ、談話室として使用、会員の方々の間で、様々な談話がされました。また、天井部分の廻り縁は、歯飾り風になっています。

1階2号室の暖炉:
赤茶色のタイル張りになっており、鏡がついており、鏡は姿見ではなく、部屋を広く見せる効果があります。

1階4号室:
別名「特別室」とも呼ばれる部屋で、メダリオン(シャンデリアの天井飾り)や暖炉部分など、邸宅内で一番高級な部屋になっています。
また左側に映る銅像は、桐生倶楽部会館設計に清水巌氏を紹介した野間清治氏のもので、氏は講談社社長として、雑誌王としても活躍した人物です。
また、この部屋は、一時期は事務所としても活用されました。

4号室の暖炉:
緑色のタイルが貼られており、上部も木製になっている、非常に高級感漂う暖炉になります。

1階5号室:
6号室と4号室に挟まれた部分で、引手を開ければ、双方の部屋に行くことができるため、「次の間」として活用たと考えられます。

1階6号室:
この部屋は、毎週「碁の部会」が開催。昭和40年代には、机一杯に並んだ碁盤の写真が残されています。

1階6号室の暖炉:
この部屋の暖炉にも鏡が設えてあり、先述のように、姿見としてではなく、室内を冷え六見せるためのものになっています。
また、暖炉に目が奪われますが、白と黒の市松状に組んであります。

桐生俱楽部会館 1階階段部分:
階段部分はドイツ式のゼセッション方式が採用されています。
階段の段差に合わせ、左側部分も段差になっているのが非常に面白い意匠です。

2階から階段部分を臨む:
階段は螺旋【らせん】状になっており、段差も非常に緩く設えています。

2階御呂地場部分から臨む:
階段部分は採光のため、大きな窓が設えています。

2階大広間:
この建物で一番大きな部屋。多くの光を取り込むため、窓が多く、かつ広くとられているため、非常に明るい部屋になっています。
竣工当時依頼、様々な講演会のほか、創建当時からクリスマス会などが行われていました。
落合慶四郎を皮切りに、若槻礼次郎や「憲政の神」と謳われた尾崎幸雄のほ、戦後にはここで、テロリストの蛮行で命を絶たれた浅沼稲次郎氏なども訪れ、講演しました。

2階大広間の暖炉:
2階には暖炉が多く設えていますが、中でも、一番前の暖炉には、桐生倶楽部初代会長の森宗作氏の肖像画が掲げられ、現在も桐生の街の営みを見守ています。

森宗作(1863~1932)のの肖像画:
現在の足利市に生まれ、20歳の時に桐生市の森家に婿入り。
金融と土地経営に専念し、桐生一の富豪に。
また銀行設立を行い、自ら頭取として活躍。1902年には今までの撚糸工程改善を行うため、桐生撚糸合資会社を設立、また、1907年には輸出織物の製造と整理業を行う両毛製織合資会社を設立するなど、桐生の発展に尽力。
また、桐生倶楽部の前身にあたる桐生懇話会を設立し
渡良瀬水力電気株式会社設立のにも関わり、桐生地区に電気を供給しました。
功績を人に譲り、自ら責任を負うスタンスから、多くの人望を集めた人物でもあります。

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