ボクシングを始めた10年後、母が泣いた話
すこし、はなしをしよう
ボクシングを始めたのは19年前。
小学2年生の終わり頃。
普段通り学校から帰ると母がチラシを見せてきた、
「あんたこれ習えば?」と言われ、チラシを見たボクは即答で「やる!」と答えた。
根性なんてまるで無いボクですが、昔は無いなりに勢いがあったみたい。
そう言った何日後かにそのボクシングジムへ見学へ行き、その日に入会した。
歳が近い子が3人くらいいたかな。
ここ数年ではフィットネスや格闘技が流行り、SNSで簡単に雰囲気などを見れるようになったからか、
ボクが通うジムにも今では幅広く色んな方が通っている。昔はごりごりのプロ目指す血気盛んな人ばかりだったのにな、時代とともにボクシングも見え方が変わったんだな。と、おもう。
当時8歳、学校が終わると自転車を10分程度漕ぎジムへ向かう日々が始まった。
ジムへ着くとまず挨拶から、
「お願いします!!」
声が小さいと、とても大きい声で怒られます。汗
ロッカーに荷物を入れ、準備体操後、練習が始まる。
そこでは大人達が怖い顔して殴り合ってたり(スパーリング)、声を出しながらサンドバッグを打っていた。
それを横目にボクはまず、基本の構えを教わる。
それからパンチを2種類、前後のステップ、これを鏡の前でフォームを見ながらやり、(シャドーってやつですね)、グローブを付けミット打ちやサンドバッグを打っていく。
鏡の前では上手く出来てたつもりでも、実際に打っていくとなると難しい、力み、乱れる。
ボクのサンドバッグ打ちを見て会長が声を出す。
「ガード上げんか!休んでないで手出せ!!ほら、またガード下がりよるぞ!」
うわまじか、こんな世界に入り込んだんか、
こわいな〜、なんて思いながらも必死に打った、目の前のサンドバッグをとにかく打った。
3分が経ち、ゴングが鳴る。30秒の休憩だ。水を飲み汗を拭く。
...カンカンカン!!!またゴングが鳴る。
これが繰り返される。
隣にいる同い年の子(T君)も頑張ってるのでなんとか頑張れた。
練習時間は1時間半程度。
練習が終わるとまた体操をし、ジムの皆んなに挨拶をしてから帰る。
「ありがとうございました!」と。
3分間と30秒間、この2つで刻まれる時間を過ごし、それぞれがそれぞれの練習をして帰っていく。試合の為、痩せる為、学校でいじめられないよう子供に習わせたりなんかもあるんだろう。
色んな目的があって、それに向かって汗を流しに色んな人がやってくる。
その中のボクは1人、めげずに通った。
1年が経った。3年生の終わり頃。
スパーリングをやることになった。スパーリングとは、防具をつけ実際に殴りあう練習のこと。
殴りあう、って凄いですよね。
人と殴りあうんですよ。
ひらがなで書くと なぐりあう ですよ。え?
カタカナだと...(もういい)
皆さん、思いっきり人を殴ったことありますか??
いやあ本当、怖いスポーツですね。。。
防具を付け、リングに上がる。相手は身長も体重も同じくらいの子。体格差があまりにもある相手とはさせないことになっている。(怪我防止のため)
こんなにも心臓の音って聞こえんの?ってくらいの緊張だった。
赤コーナーと青コーナーに分かれゴングが鳴るのを待つ。相手の子が目の前に立っている。
タイマーの数字が減っていく、0になると戦わないといけない、殴れるのか、はたして当たるのか?
いや待て、まず俺、今からぶん殴られるん!?
この子の名前も分からんのに?
俺なんか悪いことした!?
タイマーの数字が0になった、ゴングが鳴る。
始まった。
頭の中は真っ白、考えて動くなんて出来ない、ボクは身体が動くままにまかせた。
パンチが何発かガードの上だが当たった、ヨシ!
と、気を抜いた瞬間、ガードが下がったところにカウンターをもらった。
「ナイスパンチー!効いたぞ!イケぇ!」
会長が叫ぶ。
相手の子が走ってボクを追う。
もう殴らんから追わないで!(心の声)
そんな心の声はもちろん届かず、
とにかくそこからはガードを固め、殴り殴られ、
1ラウンド(3分)を乗り切った。
いやぁほんとにねぇ、、
人生で初めてね、顔を思いっきり殴られたらね、そりゃびっくりしましたね。はい。
そんなもんね、下向くなとか目瞑るなとか無理ですよ。パンチをもらって効いた感覚、ダメージを負う感覚、やったことない人からよく痛いやろ?殴られるの、って聞かれますが、違うんですよね、
痛いではないんです、
痛いの前に怖さが勝ってくるんです。
こわい、こわいんですよ。
それからの練習というと、週に2回程スパーリングをやっていく感じになった。
それが嫌で練習の頻度が減ってしまった時期もあったが、友達も通っていたこともあり何とか続けれた。スパーリングの怖さにも段々と慣れ、怖さを感じなくなっていった。
中学生になった。
この時点で、5年目か。
硬式テニスにもハマり、テニスの練習もボクシングと同じ時間くらいしていた。
帰るのはいっつも22時ごろだったかな。
テニスでもボクシングでも試合に出たり、ボクの通ってるジムが主催するイベントでスパーリングをお客さんの前でやったりと、中学の3年間で色んな経験を積んだ。
高校生になり、状況的にボクシングかテニス、どちらかを捨てないといけないと考え、悩んだ挙句、ボクシングを選んだ。
この時点で何年目かな、えーっと、8年目くらいか。ジムのメンツはどんどん入れ替わり、同じ小学校の友達も部活やらなんやらで辞めていき、残ったのはボクが入会した時からいるT君くらいだった。
ジムではボクとそのT君の2人が、高校アマチュアの試合に出ることになった。
僕らが通う高校にはボクシング部ってのが無かったので高校の名前を借り、練習場所は今まで通ってたジムでやるということになった。
毎年5月と10月あたりに試合があり、
ボクはフライ級、T君はピン級(1番軽い階級)でエントリーした。
こっからなんすよね、苦労しました。
ボクがどんな人間か、思い知らされた3年間でしたね。
思い返すととても苦い過去です。
ボクシング、個人競技。
パンチのスピードやディフェンス技術、スタミナ面、パワーがある無い、色々あり人によって秀でてる部分も違う。
練習すりゃ、レベルは上がってくる、ジムでもプロとガチでやり合えるくらいにはなってた。
けど、結局は試合でそれを出せるのかどうか。
結果を残せるのか、ここなんですよね。
試合に出るとなると減量をしなくちゃいけない、
ボクは約7キロを3週間で落としてました。
課題となったのはボクの"メンタル"でした。
体重とともにすり減っていく勝ちたいという気持ち。
だが練習を休むわけにもいかない、強度はどんどん上がっていく。
試合の日に向けて気持ちを作れない、何らかの気付きがあれば良かったんでしょうけどあの時のボクにそのアンテナは張れてませんでしたね。
高校1年、10月。
初の試合、判定で負けました。
そりゃ気持ちでやられてたんで、もうダメダメでした。
それからも試合は出続け、
高校の間で計4試合しました。
そして、結果は見事に4連敗でした。
あの時のボクに今のボクが会えば結果は変わるかもしれないですね。
たらればを言ったところでどうしようもありませんが。
メンタルスポーツです、1番大事な部分が欠けてるということが顕著に現れてました。
悔いが残ってますね、気付きって大事、そして人間として弱い。
同じジムのT君はそんなことなくどんどん勝ち星を重ね、全国8位くらいまで駆け上がってました。
まじですごい!!!
本当尊敬、輝いてたし、羨ましかったなー。
まあそんな結果でしたが親って凄いです。
そんなボクを褒めるんですから。
「ありがとう」この一言くらいしかボクは返せなかった。
これ以上喋ると、情けなくて、涙が出そうで。
高校3年、6月。
高校アマチュアが終わり、これからを考えていた。
辞めるか、プロとしてやっていくのか。
これは悩んだ。覚悟がいるから。
両親は「あんたの好きにしたらいいよ」と、
それだけだった。
勝った姿を見たいとか1回も言ってこなかったな、
プレッシャーをかけないようにしてたんだろう。
色々と、勝負どころで弱い人間なので、
結果を残して親を喜ばした事が無かった。
高校受験も落ちたしな、ボクシングもさっき書いた通りなんで。
高校3年、7月。
プロテストを受ける事にした。
結果は、合格。
約10年やって、初めて結果が出た。
これは嬉しかった。
会長も、両親も、喜んでくれた。
会長に報告した時の安堵した表情、今でも鮮明に覚えてる。
父親は親戚とかが家に来たら必ずプロテストの時の動画を見せてたな。
よっぽど嬉しかったんだろうな。
腐らずこれからもやっていこう、そう決めた。
高校に通ってる間はプロとしてお金を貰っての試合は禁止されていたので、試合は卒業してからだった。それまではプロ選手のスパーリング相手を務めたりして、その時、試合が出来る日を待った。
その翌年、3月。
ボクは高校を卒業した。
専門学校へ4月から通う事になっていた。
スポーツを教える仕事をしたかったので、それに関する学校を選んだ。
入学して、学校とバイトとボクシングの日々が始まった。
4月半ばくらいからまたプロ選手のスパーリング相手を務めた。
その時期あたりからだったな、
左目に異変を感じ出したのは。
小さいゴミみたいなのが取れない。
コンタクトなんで、その日はただ調子が悪いだけかと思い、放っておいた。
2日、3日と経ち、その異変(黒い点)みたいなのは広がり、4日目には左目の視界、上7割は真っ黒で何も見えなくなっていた。
母とすぐ病院へ行った。
検査をして、診察室へボクと母は入った。
いつもコンタクトを買ったりそこで検査もしてる眼科なので、ボクがボクシングしている事は知っている。
先生が言った。
「石川君、網膜剥離ですね、症状はとても悪いです。今日から入院で、明日にでも大学病院で手術です。あと残念だけど、もうボクシングは出来ないよ。」
分からない、何を言っているのか、理解出来ない。
その時の母の顔は思い出せない。
目の前は網膜剥離のせいで真っ暗、頭の中は真っ白、ボクが着ていた服は真っ赤だった。(このタイミングでこのボケいらない)
その後すぐ家に帰り、入院の為の準備をして大学病院へ向かった。
「失明じゃなくてよかった、ほんとよかった、運がいいねアンタ」
みたいな事を言われてたなたしか。
この病気を簡単に説明すると、
眼球と視神経を繋ぐ網膜が剥がれること。
ボクの場合、左上7割以上が剥がれていた。
あと少しで失明でした。
その網膜をバンドみたいなやつで繋いでいくらしい。
眼球の周りにバンド巻かれてる感じかな。
衝撃が加わるとバンドが切れ網膜がまた剥がれる。
だから、ボクシングがもう出来ないと判断された。
格闘家には多い病気ですね。
病院に着いた。
歩く振動もダメらしく、車椅子に乗せられた。
母は心配そうというか、あんな顔これから先見ないだろうな、生気を失ってた感じ。
父は場を和まそうと、「良かったやん、初やろ?」とかいつものように振る舞っていた。
入院2日目、手術の日。
夜20時?くらいからの予定だった。
オペ室に入るギリギリまで家族はいた。
父は笑って車椅子に乗るボクの写真を撮っていた。
父なりの愛を感じました、
だって息子が手術前で、笑えるわけないんですから。
全身麻酔での手術が始まる、
テレビでしか見た事ないあの手術台に仰向けで寝かせられ、「石川さん、いきますよー」
麻酔のあのマスクをつけられた、3秒もたなかった、そのままボクは8時間に及ぶ手術をした。
「石川さん!石川さん、終わりましたよー」
目が覚めた、気分が悪い、嗚咽が止まらない、朦朧とする意識の中家族の姿が見えた、
苦しそうなボクを見て、心配そうな顔をしてたその記憶を最後にボクは気を失った。
8時間待っていてくれた家族には、心配かけて申し訳ない、ありがとう、と思います。
数時間後、目が覚めた。
痛みは全くない。とにかくこれから1週間の入院が決まった。
麻酔、1回で4時間効くらしいんですけど、状態的に2度必要だったみたいです。
その副作用での気分の悪さだった。
お見舞いには沢山の人が来てくれた。
ジムの人、友達、学校の先生まで。
ああいう時って、ボクが暗くヘコんでると思って皆んな笑かしにくるんですよね。笑
面白いエピソードをいきなり話し出すんでそれにウケてました。
愛を感じましたね。
ただ、会長が来た時には言葉が出ませんでした。
会話、覚えてないなあ、泣くのを堪えるのに必死だったもんな。
「俺の目と交換出来れば」
この言葉、一生忘れません。
ここからは、父から聞いた話、
手術から数日後、
お見舞いに来てくれた人にお礼をする為、
両親は車でジムへ向かった。
隣にある銀行に車を停め、母がジムへ行こうとしてる時、ボクがいつもお世話になってるプロボクサーの先輩が通りかかった。
「こんにちは〜」
挨拶する先輩、
この時まだボクが網膜剥離したことを先輩は知らない。
母は、状況を説明しながら、泣いていた。
ボクの前では一切涙を見せない母が泣いた瞬間だった。
手術から1週間後、退院した。
コンタクトは1ヶ月着けれない、走るのもダメ、
「石川さん、転ぶのもダメですからね〜」
何も、出来ない。笑
そして、1年後。
目の状態も元に近い状態まで戻った。
コンタクトも着けれる、見え方もばっちり。
専門学校を卒業し、今まで通っていたジムでボクシングを教える先生、トレーナーになった。
それも今年で8年目。
思いはやり出した時と変わらず、
ボクのような悔しい過去で終わってしまうボクシング人生を歩む人間が出てこないよう、
明日からも指導していこうと思う。
皆さんは、どんな過去を持ってますか?
おわり
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