久子さん考

HMV&BOOKS サイトより
鳥取滋治郎・二三子夫の第一女子としてご誕生。聖心女子学院付属幼稚園に入園して1年弱、御父様のご転勤のため渡米。4年近くをアメリカで過ごされてご帰国。初等科4年から中等科2年まで聖心女子学院に通われたが、その後、御父様の海外勤務のためイギリスやフランスにも在住。英国のカトリックの女子校を卒業後、ケンブリッジ大学ガートン・コレッジで中国学や人類学・考古学を学ばれた。1975年にご卒業。この頃より根付の収集を始められる(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
レンズを通して 四季をめぐる鳥と根付』より

宮内庁サイトより
ご学歴など
昭和47年 英国:ケンブリッジ大学ガートン・コレッジご入学
昭和50年 英国:ケンブリッジ大学ご卒業
昭和54年 英国:ケンブリッジ大学修士授与
平成24年 博士(芸術文化学)大阪芸術大学名誉学位平成16年 名誉博士(法学)カナダ:アルバータ大学
平成16年 名誉博士(法学)カナダ:プリンス・エドワード・アイランド大学
平成26年 名誉博士(教育学)大韓民国:韓南大学校
平成27年 名誉博士:城西大学

Wikiより
1953年(昭和28年)7月10日東京都港区白金にて三井物産勤務・鳥取滋治郎、二三子(ふみこ)夫妻の長女として誕生。聖心女子学院附属幼稚園に入園[4]。父の米国三井物産転勤により一家で渡米。ニューヨーク郊外のウェストチェスターに転居。ママロネック・スクールに入学。帰国後、聖心女子学院初等科・中等科卒業するが、父が欧州三井物産ロンドン支店次長に任命され一家で渡英。ノースヨークシャーメアリーグラマー女子修道院校(The Convent of the Ladies of Mary Grammar School)に入学。その後同国、ケンブリッジ大学ガートン・カレッジ中国学人類学考古学を学び[5]1975年(昭和50年)に卒業。

日本に帰国し翻訳会社に勤める。再度、法律を学ぶために渡英し、1982年(昭和57年)に帰国した。称号名誉学位)として名誉法学博士アルバータ大学プリンスエドワードアイランド大学)。


ここまでをまとめると

誕生 1953年7月10日
日本の幼稚園に1年半通園 3歳入園したとして4歳半まで(1956〜1957)
渡米4年間 4歳半から8歳半(1957年〜1961年)
中等科を卒業 8歳半から15歳 (1961年〜〜1968年)
渡英 メリーグラマー女子修道院校、ケンブリッジ大学卒業22歳(1968年〜1975年)中国学人類学考古学
帰国 翻訳会社に就職 
渡英 法律を学ぶため
帰国 29歳(1982年)

三笠宮崇仁親王の通訳・助手 30歳(1983年8月)
カナダ大使館のレセプションパーティーで憲仁親王と会う 30歳(1984年4月23日)
仕事では「鳥取恒久子」という名前の名刺を使う
憲仁親王からのプロポーズ 30歳(1984年5月20日)
納采の儀 31歳 (1984年9月17日)
結婚の礼 31歳 (1984年12月6日)
第一女子誕生 33歳 (1986年3月15日)
第二女子誕生 35歳 (1988年7月29日)
第三女子誕生 37歳 (1990年9月25日)

韓国訪問 憲仁親王急逝 49歳(2002年11月25日))

ちなみに
小和田恒
外務省外務省入省(1955年)ケンブリッジ大学法学士取得(1956年)
在ソ連日本国大使館一等書記官 (1959年〜1963年)
東京大学非常勤講師 (1963年〜1988年)
福田赳夫内閣 総理大臣秘書館 (1975年)
在米大使館公使、6年前からの招聘にようやく応えハーバード大学ロー・スクール客員教授に就任し一家で渡米 (1979年)

彼女が大学卒業後一度帰国し翻訳会社に勤める、何年間勤務したかはわからないが再渡英。法律を学びに行ったとのことだがどこの国の法律か、学校に通った等は出ていない。
この22歳である1975年以降(何年に行ったかは不明)から1982年の帰国までの7年弱の間が不明というのは、かなり謎だと思う。
はっきりと書けないことをしていたとしか思えない。
そして帰国した翌年には、第31回国際アジア・北アフリカ人文科学会議で三笠宮崇仁親王の通訳・助手をする。
ケンブリッジ大で人類学を学んでいたからかもしれないが、強いコネの臭いがする。

その7ヶ月後に崇仁親王の息子である憲仁親王とカナダ大使館パーティーで出会い、その1ヶ月後にプロポーズを受け、4ヶ月後に納采の儀、3ヶ月後の1984年12月6日に結婚の礼となる。憲仁親王は余程早く結婚したかったのだろう。

憲仁親王は学習院大学卒業(1978年)その後カナダのクィーンズ大学に留学(1978年〜1981年)3年いたが学位は取っていない。
帰国後国際交流基金で嘱託勤務を始めるのが27歳。
カナダ大使館で薨去が2002年。

1986年にエレナ王女のレセプションに雅子さんがねじ込まれ、徳仁親王と出会う。その後かなり何度も会う機会を持つ。
まず徳仁親王が雅子さんを気に入っていたのなら、何度も周りが会う機会を作る必要などなかったはず。お忍びの場を持てばいいだけなのだ。
むしろ注目を受けることなどしたくないのが普通ではないか。二人で話を進めていけばいいはず。

ということは、徳仁親王がその気がなかった。興味持てなかった。
彼の理想と違っているという可能性もあるだろう。
結婚してもらわないと今後の計画に差し障る人たちは、徳仁親王にとにかく雅子さんで決断して欲しかった。

安倍元総理の事件後、統一教会の写真が色々と出てきた中に、

『統一教会教祖の文鮮明、および韓鶴子と会食する天皇裕仁の弟三笠宮崇仁、秩父宮妃勢津子、高松宮妃喜久子、三笠宮妃百合子、常陸宮妃華子の写真です』

というのが存在し、検索すればすぐに見つかる。
この場合、どういう美味しい話があったのだろうか。
どちらにとっても美味しい話に違いない。

憲仁親王は、久子さんがそこにいる理由を知っていたのだろうか?
その後ろのことに気付いていたのだろうか?
久子さんがその仕事になることはいつから決まっていたのか?
久子さん”も”雅子さんを薦めたというのも真実である。
今はわからないがかつては美智子様とも仲が良く、アドバイスなどできる立場だった。

憲仁親王の斂葬の儀の際、第一女子の姿は普通でなかった。
あの家には何か問題がある、そう思った人は少なくないだろう。
彼女らは見かけを繕うことすら完全に拒否していた。
親を、家を嫌っているのは歴然だった。
どこのマスコミもその様子をスルーした。
マスコミはそちら側の人ということ。

憲仁親王のWikiに

『生涯を通じて皇位継承順位が皇族の中で最下位であり、また生家においても大正天皇の末子である、つまり傍流にあたる崇仁親王の三男ということから「皇室(オク)のスポークスマン」を自認していた(戦後では皇位継承順位が生涯を通じて皇族の中で最下位だった唯一の例)』

とあり、辛い立場だったと想像できる。
そこをうまく使えば、彼をうまく操縦できるだろう。
出会って1ヶ月でプロポーズまで持っていけたのは、憲仁親王にとっても美味しい話があったのではないか。

小室さんを使ってうまく動かそうと思った人たちにとって、NYに行ってしまうというのは期待外れだっただろう。
眞子様は彼の後ろの存在を最初から気付いていたどうかはわからない。
しかしこの大きなバックと戦うにははるかに非力であることを熟知している。
最悪の状況で彼と遠くへ行くことを決断し、何も受け取らずに出て行かれた。




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