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【思考(おもかん)】何に傷つくのか

こんにちは。おおかみの人です。

今回のトップ画像は、わたしから見たわたしの手。




今回の記事は、ちょっと前にあった出来事について、ちょっと前に自分の考えや想いを記したものです。自分なりにこのトピックについてずっとモヤモヤ考え込んでいましたが、この出来事を共有したさくら先生と友人のお陰でそのモヤモヤのほとんどは晴れていきました。でも、ここで考えたことは忘れたくないと思い、その「ちょっと前」に書いた記事をまずはそのまま載せています。そして、さくら先生と友人に感謝しつつ、その時の会話から考えたことを、記事の終わりに追記のような形で綴ります。




今回の【おもかん】のテーマは…

何に傷つくのか】。

このテーマは、自分がこれから先…いや、いまも、活動をする上でとても重要なテーマになると思うので、自分で何度も何度も考え直し、推敲して、自分なりの現時点での答えを少しでも出せたら…いや、答えはおそらく、出ないだろう。それでも、このテーマについて考えることを、やめたくはない。


1年ほど前、わたしの友人が「私インスタやめたんだよね〜」とLINEで話していた。

「えーなんで?」とわたしは聞いた。すると友人はこう答えた。

「だってさー、インスタってみんなめっちゃキラキラしとるやん?あーゆー人たちのそーゆー投稿見てるとさ、自分がどうしようもなくクソに思えてくるんだよね。見るのしんどくなったし、私も投稿できること特にないし、もういいやって思って。相変わらずインスタ開こうとする指の癖は抜けんけどね笑」

その気持ち、わかるなあ、とぼんやり思いながら、その話は流れていった。そしてわたしは入院を経て、インスタを始め、Twitterをやめた。
彼女には彼女のインスタをやめた理由があるし、わたしもわたしでインスタを始めてTwitterをやめた理由があって、そこにはその人なりのいろんな想いがあると思う。
LINEにテキストメッセージの形で残された彼女の「自分がどうしようもなくクソに思える」という言葉を、わたしはなんとなく、どうしても、忘れられずにいる。


いまのわたしは、さくら先生と今後の夢や目標を共有しつつ、それに向かって進んでいきましょう、という方針が見えてきて、やっと目標が定まってきて、それに向かって進めるようになってきましたね、それはとてもいいことです…と、少しずつ「迷い癖」から脱してきているようだ。もちろん、いまでも迷走や逆走、度重なる寄り道の癖はなくなってはいないが、それでも以前よりはだいぶマシにはなったと思う。

そして先日、以前から付き合いのある人形劇仲間のとある友人とオンラインお茶会をした。
友人とは言うものの、わたしよりその方の方が年上で、わたしはその方のことをココロの中では「先輩」だと思っているので、ここでは「先輩」と呼ばせてもらうことにする。

先輩とは、いろんな話をした。
前回のオンラインお茶会のあとにあったことをお互いに話したりした。ちなみに、先輩はわたしのnoteをよく読んでくださっていて、わたしの現状はだいたい把握している。なので、「ライブはどうだった?」と尋ねられて、「もうすっごい特等席で最高のものが見られました!!」と半ば興奮気味で答えた。

いろいろと積もる話の中で、最近音沙汰のない共通の友人(友人とは言っても、その方も歳上)の話題になった。その方をMさんとする。
Mさんとは、先輩の紹介で前回のお茶会のときに知り合った。いまはもうその劇団は記憶の中だけに残る存在だが、先輩が団長を務めていた人形劇団の団員のひとりで、Mさんとわたしとは境遇が重なるところも多くて3人での会話は大いに盛り上がった。…と、そう思いたい。というか、わたしはそう思いたかった、という願望に近い。
実際、どうがんばったって、他人がほんとうはどう思っているかなんて、わからないものだ。

先輩は、Mさんのことを…近況などを話してくれた。
すべてはここには記せないけれど、こんなようなことを…言われたと思う。

「Mさんね、おおかみちゃんがいろんなことにがんばって取り組んでる姿を目にして耳にして、どこかで【負けた】って感じちゃったみたいなのね。それで、私たち3人で作ったグループからは抜けて、遠くから応援してますって、そんなことを言ってたよ」

その日のお茶会はつつがなく終わり、終始にこやかに話して、とても良い雰囲気で終わっていったのだが、どうしてもその言葉がココロに重くのしかかるように残った。

ここで予め記しておくのだが、わたしはこの記事で誰か他人を責める気持ちはまったくない。責めるとすれば、それはこの自分自身だ。


インスタをやめた友人の、「自分がどうしようもなくクソに思える」という話。
最初は、自分も「わかるなあ」なんてぼんやりと思っていた。インスタはたまにタイムラインを追う程度でほとんど見ることはないけれど、そこに並ぶ数々の写真やリール動画、ストーリーには、わたしがフォローしている人たちが作った完成度の高いきらびやかなハンドメイド作品や、まるで人間のように動く劇人形たち、そしてその人たちの楽しそうな日常風景なんかがたくさん流れてくる。そんな投稿の数々を、わたしは「いいなあ、すごいなあ」と、ただ口をぽかんと開けて見ているだけで、その友人のような気持ちになったことは、インスタでは、いまのところはない。

でも。

わたしがTwitterを使っていた頃。
わたしと同じ「人形やぬいぐるみが好き」という界隈の中で、ひとり飛び抜けて活躍している方がいた。その方は、人形やぬいぐるみの持つ力をいろんな人に伝えることを大きな目標に、自分で組織を立ち上げたりしている、わたしよりずっと歳の若い活動家のような女性だった。

いったいどうしてそんな風に思ったのかは、自分でも説明ができないけれど、わたしはこの女性に対して、激しい憎悪のような気持ちを覚えてしまった。
彼女の呟きの一言一言が、憎たらしくて仕方がなかった。
具体的な呟きの内容には触れないが、彼女の活動が軌道に乗っていることを報告する呟きや、この目標はいついつまでには達成できそう!と言うような、希望にあふれた呟きを目にすると、つばを吐きかけたくなるような気持ちになった。

彼女は、人形の世界で成功して、活躍している。きらきらと、輝いている。それに対して、自分はどうか?そうやって比べてしまった。
冒頭のあの友人の言葉を借りれば、わたしは自分が「どうしようもないクソ」に思えて仕方がなかった。彼女は光り輝く日向にいて、わたしは日陰者。どうやったって、彼女みたいに活躍する人生は歩めないし、背中に大きく「自分は落伍者だ」という烙印を押されてしまったような、そんな言いようもない劣等感を強く強く感じてしまった。そしてわたしは、一時はフォローしていた彼女のフォローを外し、最終的にはブロックして、絶対に彼女の呟きを目に入れないようにして、自分をなんとか「守った」。

僻み根性。卑屈な考え方。
誰かと比べて、自分は常に負けている、という負け犬思考。
わたしは、成功者から笑われる人間。
わたしはなんにも悪いことなんてしていないのに。うまくいかない。でもあの人はうまく行っている。羨ましい。憎い。
わたしはいつだって被害者だ。周りのみんながうまくいっているのに、わたしはいつも貧乏くじばかりを引かされる…。

そんな考え方はみじめだし、哀れだし、何よりみっともないと分かってはいた。でも、その考え方からは抜け出すことができなかった。
わたしはいつでも何か運命の被害者ぶっている節があって、たぶん入院中に桃子先生が指摘したわたしの「悪癖」…【不安を撒き散らす癖】というのも、彼女が診察中に見てきたそういうわたしの被害者ぶったツラのことを言っていたのだろう、と、いまは朧気ながら確信が持てる。


そして、入院を経てさくら先生と新しい道を1歩ずつ歩み始めるようになったいま。
自分でも少しずつ、進みたい道に向かってがんばれるようになってきた、まさにいまこのとき。

まさか、自分が加害者側になってしまうなんて。

そんなこと、思ってもみなかった。

わたしががんばって成果を出せば、わたしはもちろん嬉しいし、周りの人もきっと喜んでくれるに違いないと、なんの疑いもなくそう信じ込んでいた。
もちろん、わたしが作品を作るたびに喜んでくれる方や、応援のメッセージをくださる方もいて、そういう反応を貰うたびに嬉しい気持ちになって、ますますがんばろうと思える。

でも。

そのわたしの姿を見て、Mさんは傷ついた。

………

わたしが、傷つけてしまった。

………

何かにがんばる人を見て、どうしようもない劣等感を抱いてしまうその気持ちは、自分なりによくよく理解しているつもりだった。だけど、まさかわたし自身が自分の手で、自分に近いところにいる人を傷つけてしまうなんて…。

自分は例外だと、どこかでそう思っていたのかもしれない。例外というか、先述の通り「自分ががんばれば必ずみんなに喜んでもらえる」と盲信していたこと。それがこうやって足元をすくってきた。


わたしはいま、答えも先も見えない真っ暗な闇の中を落ちているような、そんな気持ちでいる。

被害者面をしていた(している)自分が恥ずかしい。
それなのに、いまでもわたしは成功者を見かけると僻んでしまう卑屈な気持ちを持っている。
自分ががんばれるようになったことで、その気持ちは次第に薄れつつあるが、今度はがんばればがんばるほど、周りの人を傷つけてしまう。

…己の力の使い方を未だ知らない巨人のようなジレンマを抱えてしまうに至った。

自分ががんばることで、誰かを傷つけたくはない。でも、がんばらなかったらわたしの夢はかなわない。
でも…わたしは、がんばらない方がいいんだろうか。何もせずにのほほんと、人の話を聞いて笑っていた方がいいんだろうか。
でも、夢の実現のためには、自分ががんばらないことには何も進んでいかない。でも…自分ががんばるその先で、誰かが傷つくのは見たくない。でも、でも、だけど………。


…わたし、どうすればいいんだ?


………自分でできる限りの努力をすることと、それに伴って人が傷つくこと。
努力をやめれば、傷つく人はいなくなるんだろうか。じゃあ、わたしの気持ちは…?


Mさんを傷つけてしまったことをきっかけに、わかったことがひとつある。それは、「走る人には何も見えていない」ということ。

ゴールを見つけたいまのわたしは晴れて、42.195kmよりもはるかに長い人生という道をひた走るランナーになった。
沿道で見守る人の多くは、わたしに向けて「がんばれ!!」と声をかけている。わたしはそんな人たちの応援を背に受けて、ときに給水し、ときに休憩し、ときにシューズの具合を確認したりしながら、ひたすら先に進む。

その中に、住んでいるアパートのベランダから、マラソンをこっそり覗いている人がいる。
その人は、近くでマラソンが開催されていることは知っていて、少なからず興味は持っているらしい。いったいどんなことを考えながら、その人はマラソンを眺めているのだろうか。

「いいなあ。あんなに速く走れて」
「わたしは鈍臭いしあんな速く走れないし」
「みんなに応援されて羨ましいなあ」
「どうせわたしはなんの取り柄もなくて誰からも応援されるようなことなんてないんだろうな」
「ふん、どうせわたしにはあんな芸当できっこないね」
「ああ、もう嫌だ。人が走っているのを見るだけで虫酸が走る」

…そう思って、その人はガラガラと窓を閉め、部屋に引っ込んでいってしまった。
その人は走っている人に嫌悪や憎悪の気持ちを抱いて、モヤモヤとどうにもできないその想いをどこにも吐き出せずにいる。そしてその人こそ、本来のわたし自身ではなかったか………。


他人の活動を妬み僻んで、今度は自分の活動で近くにいる大切な人を傷つけて。
傷ついてしまう立場も、傷つけてしまう立場も、両方を経験して、やっぱり「走っている人には何も見えていないのだ」と思う。

走っている人が目指すのは、その先にあるゴールだ。沿道で応援する人々の声も、目の前にある風景も、流れゆき過ぎ去ってゆく一時のものにすぎない。そして、見ている人が何を感じ、何を思い考えているのかは、走っている人にはわからない。

ベランダから覗いていたあの人からは何が見えるだろうか。
この人は、ちょっと離れたところから、メインストリームを少し冷めた目で見ている。ランナーと違って、一点に止まった状態で見ているこの人の目には、そもそも晴れ渡った空模様自体が鬱陶しかったり、沿道で盛り上がっている人々の声がうざったく思えたり、走っているランナーの姿を見ることそれ自体が、まるでぱっくり開いた傷跡を縫う針のようにちくちくと痛みを伴う。そういうもののひとつひとつがしんどくなって、結局部屋に戻ってしまうのだ。そして、そういう人は沿道で応援している人たちとは違って、そもそもランナーからは見えることがない。自分が走っていることで、嫌な気持ちがどこかで生まれているだなんてことは、ランナーはつゆ知らないのである。


いったい、何に傷ついてしまうのだろう。

ランナーが走るのは、自分だけの道。ランナーの数だけいろんなコースがある。そして、沿道で応援している人やベランダから覗いているあの人は、走っていないことで劣っているとか負けていると評価をされているわけではない。でも、走る人とそれを見ている人には、気づかない間に「力の差」のようなものが生まれている。走る人は優秀で、見ている人は平凡あるいは野暮、というような…。

果たして、この「力の差」に自覚的なランナーはどれくらいいるのだろうか。目には見えない力の差があることで、陰で傷ついている人がいるかもしれないということまで想像ができるランナーは、なかなかいないのかもしれない。自分だってベランダから覗く立場だったはずなのに、いざ自分がランナーになった途端、そんな過去の記憶はどこかへ置き去りにされてしまうらしい。

…それでいいんだろうか。

いまはひとりのランナーとして走っているわたしが、たとえベランダで覗いていたその人に何か声をかけたとしても、その人にとってはただ「成功者が上から目線で物を言っている」ようにしか受け取られないだろう(何より自分がそういう性格なので)。わたしが何か言ったところできっとその人には思ったように伝わらない。それどころか、その人をさらに深く傷つけてしまう可能性の方が高い。

見えない力の差によって傷ついて、傷つけて。
傷つく自分にも、傷つけてしまった誰かにも、わたしはかける言葉を知らないし、どうケアをしていいのかわからない。でも、自分の言動で誰かが傷ついてしまうのかもしれない、と頭の片隅にでも置いておくことで、自分の中の何かが変わるんだろうか。それとも、慎重になりすぎて、走る脚が止まってしまうんだろうか。いまのわたしにはわからない。


この問題には、きっと答えなんてないんだろうと思う。何かを「する/しない」という尺度が存在するその時点で、見えない力の差が生まれてしまうから、それをなくそうとしてもなかなか難しい。何かを「する」方が尊くて、「しない」のは凡人だとか野暮だと無意識に思い、何かをする誰かとしない自分を比べてしまうのは、もしかすると人間の習性なのかもしれない。インスタをやめた友人やMさんに限った話ではなく、見えない力の差から比較をしてしまって傷つく経験をする人が多いから、最近SNSから離れる人が増えているのかもしれない。

やっぱり、答えはない。だけど、こういう事実があることは、忘れたくない、覚えておきたい。
向き合うことを、やめたくはない…。


やっぱり考えがまとまらなかったけど、自分なりに少しでもこの「何に傷つくのか」というテーマについて考えられたので、ここで考えたり理解したことを頭に置いて、わたしは前に進もうと思います。どうしても、やりたいことがあるから。




そして、このエピソードがあったあと、診察があってさくら先生にことのあらましを説明した。以下の記事にその時のことが書かれている。

正直なところ、あっという間にこのモヤモヤをさくら先生に解決「されてしまった」ので、もうちょっとモヤモヤさせてくれよ!と思わなかった訳ではない。先生はなんにも悪くないのだが、まるで自分がこうやってモヤモヤと考えていたのがまるっきり無駄だと言われているような気持ちになったことは否定はしない。でも、自分なりにこれだけいろいろと考えられたことは価値あることだと自分では思っている。

さくら先生が言っていたが、ある人AさんはBさんのことが羨ましくて、BさんはCさんが羨ましくて…世界は誰かを羨み、誰かに羨まれることでできているのかもしれない。自分が誰かを羨んでいるだけのところから、誰かに羨まれる立場を経験して、世の中の仕組みのようなものに組み込まれたような、そんな気がした。
そして、羨む気持ちは期待の裏返し。いままで何も持っていないと思っていた自分だが、ちゃんと持っているものがあって、それに期待してくれている人がいまはいる。しかも、たくさん。Mさんのことは傷つけてしまったけど、さくら先生も言うように、それは彼女がわたしにある種の期待をしてくれているということでもあって…。傷つけてしまったことでショックは受けたけど、ここで立ち止まって何もしなくなってしまうのはまた違うと思う。わたしはわたしなりのやり方で進んでいくし、それを色んな人に見ていてほしいな、と思っている。

そして先日、診察があった日の後日に友人と会って、彼女にもその時の話をした。彼女はこんなことを言っていた。

「わたしたちみたいな人間ってさ、責任を自分に背負い込みすぎなんだよね!」

「わたしはさ、責任の所在を分けるようにしたら、気持ちが楽になったよ。ここまでは自分の責任、でもここから先はあなたの責任、みたいな。おおかみちゃんがショックを受ける気持ちも分からんではないけど、正直それって受け取った側の問題じゃない?おおかみちゃんに悪意があったわけでもなんでもないし、そういう風に受け取られたのは受け取った側の話で、おおかみちゃんがどうしようもできないことなんだから、おおかみちゃんが気に病む必要なんて1つもないんだよ」

確かに、責任を背負い込みすぎなのかもしれない。どれだけポジティブな出来事でも、受け取る人がどんな評価を下してどんな気持ちになるかまではコントロールができないし、そこまで配慮し始めたら、息が詰まって何もできなくなってしまう。決して自分が考えたことは無駄だとは思わないが、そればかりに意識を向けすぎるのもきっと良くないのだろう。


結局、自分の考えたことに他人の考えがミックスされたことで、やっぱりわたしは自分のやりたいことを自分がやれる範囲で自由にやっていこう、という考えに落ち着いた。悪意があって人を傷つけるようなコンテンツを作っているつもりはない(もしあったら遠慮なく教えてほしい)し、自分の作ったコンテンツで何らかのダメージを負う人がいたとしても、それは仕方のないことだと思って諦めるつもりでいる。世の中には色んな人がいるから、仕方のないことだ。それでも自分は自分らしく進んでいこうと思う。


長くなってしまったけれど、今回の記事はこれでおしまい。
ここまで読んでいただきありがとうございます。

また書きたいことが溜まってきたら戻ります。

それでは。

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