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慣れてはならないこと

人間には偉大な機能が備わっている。それは「慣れる」というものだ。もし人間に「慣れる」という機能がなかったら、こんなに悲惨な世の中を生きていくことはできないだろう。人間はどんな出来事にも、環境にも次第に慣れていく。

この機能は偉大であると同時に、非常に残酷なものでもある。「慣れる」という機能の根底には、感受性の麻痺があるからだ。ゆえに、どれほど間違っていることであっても、人間はそれをあたりまえだと感じるようになっていく。「慣れる」ことによる感受性の麻痺は、いかなる出来事や環境に対しても自動的に起きてしまう。

人間は慣れることで、自分でも気づかぬうちに残酷になっていくのだ。

このことは、今回の新型コロナ危機においても見られるようになってきた。新型コロナウイルスは最初中国で流行し、次第に世界各国に拡散した。日本では、まずはじめにクルーズ船での感染が話題になって、それから国内での感染拡大となった。あの頃、ほとんどの人は、ひとりの感染者が出ること、ひとりの死者が出ることを一大事として受けとめたはずである。

しかし、現在では、感染者や死者が出ることに我々は慣れきってしまい、日々発表される数字の先に実在する生身の人間がいることを、いつのまにか忘れ去ってしまっている。そこにあるひとりひとりの悲しみや苦痛に寄り添う気持ちがなくなってきている。心が鈍くなってきている。

医療崩壊は、もちろん最も避けなければならないことである。しかし、その理由は犠牲者の急増を招いてしまうからなのであって、「医療崩壊をしなければよい」ということを意味しているわけではない。たとえ医療崩壊をしなくとも、ひとりひとりの単位で見たときの感染者や死者の悲しみや苦痛がなくなるわけではない。医療崩壊を阻止することは犠牲者を抑えるための手段であって、感染症対策の本質的な目的ではないのだ。

手段と目的をすり替えてはならないし、すり替えに騙されてはならない。

我々は原点に立ち戻らなければならない。感染症対策の目的は、人々の悲しみや苦痛をできうる限り小さくすることにあるはずだ。それにもかかわらず、医療崩壊しなければよいと割り切ってしまうと、一定数の人々を容赦なく切り捨てることになってしまう。

いわゆる「ゼロリスク」を言っているわけではないが、だからといってリスクを野放しにすることが正当化されるわけではない。リスクの最小化は当然目指すべき目標なのである。「ゼロリスク」というレッテルを貼りたがる人は、白か黒かでしか物事を捉えられない、リスクという概念を最も理解していない人たちだ。リスクとは確率であり、確率をできうる限り小さくしようとするのは、感染症が流行している状況下では最大の利益に繋がる。

なぜなら、人々の悲しみや苦痛をできうる限り低減させること以上の利益はないからだ。

そもそも、経済も目的ではなく手段に過ぎない。経済は、人間のための経済であるべきなのであって、経済のために人間が奉仕する、人身御供となってしまうのは、まったく本末転倒でしかない。

我々はあらゆることに慣れていく。そして慣れていくうちに、ほんとうに大切なことを見失ってしまう。ゆえに、人間は何度も間違えを犯してしまう。

だから、自戒しなければならないのだ。「慣れる」ということがどれだけ人間を鈍くさせるということについて、我々は自戒しなければならない。そうしなければ、人間は慣れきってしまい、なにもわからなくなってしまうからだ。

世界には、決して慣れてはならないことがある。我々は人々の悲しみや苦痛に、そして死者が出るということに絶対に慣れてはならないのである。

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