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選択的夫婦別姓に反対する

選択的夫婦別姓に賛成する人が増えている。おそらく夫婦同姓とか夫婦別姓とかよりも、「選択的」という部分が支持を集めているのであろう。「選択肢が増えるならいいじゃないか。だれも損しないんだし…」といった軽い感覚のままで、議論を進めてもよいのだろうか。

この「選択的」という発想に、私は断固として反対する。「選択的」に含まれる選択肢が、夫婦別姓の実現ありきで非常に恣意的なものに感じるからである。

もし「選択的」であることがそんなに良いことならば、なぜ選択肢が2つしかないのだろうか。選択的夫婦別姓において想定されている選択肢は、夫婦どちらかの姓に合わせるか、そのままの姓にするかの2つしかない。「夫婦が同姓であることを強制されている」などと言う者もいるが、そもそも姓を名乗ること自体が強制性を伴っていることを見落としているのだ。そして強制性があることを問題とするならば、選択肢のなかに「自由な姓を名乗ること」や「姓を名乗らないこと」があるべきだろう。そこまで徹底しなければ、選択的夫婦別姓の趣旨を実現することは出来ないはずだ。

しかし、そこまで徹底すると、ファミリーネームはもはや社会的に機能しなくなる。家族という単位は無意味なものとなって、それに合わせて憲法や民法、税法などをはじめとしたありとあらゆる社会制度を変革する必要が出てくる。戸籍も複雑化するか、廃止するかしかなくなる。特に相続は基本的に廃止するしかないだろう。

選択的夫婦別姓の実現のために、はたしてそこまでの社会的コストを費やす必要があるのだろうか。

社会制度とは、共同体のありかたが反映されたものである。ゆえに、そこに不自由や手間がかかるのは当然のことで、それすら否定するのならリバタリアニズム的な社会制度にしていくしかない。しかし、選択的夫婦別姓を推進しようとしている人たちがそこまでの覚悟を決めているようには、とてもじゃないが思えない。

要するに、選択的夫婦別姓とは非常にご都合主義的で、論理的一貫性が欠如した、誠実さのない無責任な意見に過ぎないのである。

なぜ姓についてのみ、「選択的」でなければならないのだろうか。ほかの社会制度も「選択的」にすればよい。たとえば、税金や社会保障も「選択的」にしてみればよいだろう。それで社会が成り立つとは思えないが、なぜ姓は「選択的」であるべきで、税金や社会保障が「選択的」であってならないのか、私にはその違いを理解できない。

私自身、仮に結婚したならば、妻の姓にすることにまったく抵抗はない。私の姓は家系図を辿っていくと数百年の歴史がある。だが、私は姓にあまりアイデンティティを感じたことはないし、大切にすべきは母親が愛情込めて名付けてくれた名前(ファーストネーム)だと思っている。

それに夫婦同姓が日本の伝統だとも私は思っていない。国民が夫婦同姓となったのは明治維新のころからで、たかだか明治以降の伝統でしかないからだ。伝統とか家族のありかたといった、情緒的な夫婦同姓論には私は与しない。

それでも私は、この国は夫婦同姓であるべきだと考えている。たとえ短い伝統であっても、いままでの蓄積のうえに私たちの社会は成立しており、それらを前提にさまざまな社会制度は構築されている。よほどの問題がないかぎり、社会制度の大変革をあえて行う必要はないし、その社会的なコストを費やすべきではないと考えるからである。

さらに言えば、私は共同体としての一体性を尊重するべきだと考えている。もしありとあらゆる社会制度を「選択的」としていけば、国民の共同体意識はすっかり失われてしまい、その行き着く先は社会自体の解体となるはずだからだ。

私は選択的夫婦別姓に断固反対する。特に「選択的」という部分が孕む問題は、到底看過できるものではない。国民は「選択的」という甘言の弊害をもっと真剣に考慮するべきなのである。

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