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民主主義と立憲主義は対立する

日本の憲法学者たちは、しばしば民主主義と立憲主義がセットであるかのような言説をする。たしかに、自由をはじめとした国民の諸権利を保障することは民主主義に必要不可欠であるから、その面では民主主義と立憲主義はセットだといえる。しかし、そうであると同時に、実のところ民主主義と立憲主義は対立する面も持ち合わせているのだ。

そもそも憲法とは、国家権力を制限し、人権を保障するものである。人権とはその名のとおり「すべての人に与えられた特権(人間以外の動物に人権はない)」であり、普遍的な概念である。だから厳密に言えば、人権には国籍や性別や年齢によって差があってはならず、巷間よく言われる「女性の人権」とか「子どもの人権」といった言葉は矛盾した語法ということになる。原則として、すべての人に等しく保障されるべき権利が「人権」なのである。

だが、「人権は保障されるべきである」とどれだけ言ったところで、実効性のある保障制度がなければ無意味である。そこで人権を保障するために、国家権力の担い手となる統治機構の体制をも憲法に明記する。つまり憲法の条文は「人権保障」と「統治機構」に大別されることになる。これが憲法の建てつけである。

こうした憲法の前提に立脚したうえで、民主主義と立憲主義の関係性を検討していく。まず、立憲主義とは、政府の統治を憲法に基づき行う原理で、政府の権威や合法性が憲法に依拠することをいう。要するに立憲主義とは、政府は憲法に立脚して国家権力を行使しなければならないということである。その目的とするところが人権保障にあることは、もちろん忘れてはならない。

ところが、人権は普遍的権利であるはずなのに、それを保障するための憲法は国によってさまざまである。たとえば、憲法9条の是非が議論になる際に「日本は先の大戦の反省から…」という発言が憲法学者たちからよく聞かれる。ユニバーサルであるはずの人権と日本独特の事情(先の大戦における敗戦)がない交ぜになってしまっている。人権という抽象的概念が否定されることは、西側世界の諸国ではほとんどない。しかし、人権の具体的内容や範囲、それを保障するための憲法のありかたは国によって異なるし、さまざまな意見があるのだ。

普遍的であるべき人権を保障する憲法が普遍的ではないということ、これはひとつの矛盾なのかもしれない。ただ、この矛盾に関連して重要なのは、仮に人権(抽象的な意味での人権)は絶対的であるとしても、その人権の絶対性が憲法の絶対性まで担保するわけではないということだ。憲法は相対的なものであり、可変的なものなのである。だからこそ、憲法には改正条項が存在するわけだし、実際に諸外国は憲法をたびたび改正してきている。

憲法とは過去に制定されたものである。日本国憲法でいえば、1946年11月3日に公布され、1947年5月3日に施行されている。すでに70年以上が経過したことになる。言い方を変えると、憲法は過去に立脚して現在までを支配しているわけだ。それに対して、憲法に支配されている現在とは、国家権力及びその担い手である政府のことを指す。このように、過去が現在の行き過ぎを抑制しているという性質が憲法にはあるわけである。

しかし、こうした憲法の持つ性質は民主主義と対立することになる。なぜなら、民主主義に基づいて成立(選挙の結果によって成立)しているのが民主主義体制下の政府であり、その政府を制限するということは、国民を制限することにほかならないからだ。国民主権に基づいた憲法は国民によって制定されることになるが、つまりそれは過去の国民が現在の国民を制限しているという構図になるのである。すなわち、「過去」に立脚する立憲主義と「現在」に立脚する民主主義の対立関係が見出されるのだ。

かつてのイギリス憲法のように、憲法が王権を制限している時代ならば、民主主義と立憲主義は対立することにはならなかっただろう。だが、国民主権である以上、現代の「王様」は国民自身なのだ。

念のため断っておくが、私は立憲主義に対する民主主義の優位を説いているわけではない。むしろ逆に、民主主義と立憲主義の相互抑制機能に着目しているのだ。人は現在という「事象の渦中」にあるとき、往々にして極端に走りがちである。とかく現在というやつは、先走りやすい傾向にあるのだ。そうした「民主主義の暴走」を抑制することは必要不可欠であり、そういう意味で立憲主義は重要なのである。

しかし同時に、立憲主義が民主主義に対して優位性を持つべきとはまったく思わない。憲法を制定するのはあくまで人であって、神ではない。そして人が作るものである以上、完璧ということはありえない。ゆえに憲法は「永遠の未完成品」として、不断に変更されていくべきだと私は思う。

また、憲法の権威性という面からしても、憲法は定期的に改正されたほうがよい。そもそもただの紙切れに過ぎない憲法が国家権力という暴力装置(軍隊や警察)を独占する存在を制限できるのは、憲法が権威をまとっているからだ。近代憲法の権威は主権者たる国民に由来するわけだが、権威とは正統性のあるところに生じるのであり、憲法の正統性は公正手続き(デュープロセス)によって付与される。

その点、日本国憲法はその「出生の秘密」に疑義が持たれており、私は現行憲法が憲法に相応しい権威を持ちえるのか非常に疑問に思っている。私は立憲主義を保護する立場から、日本国憲法は国民の手によって改正されるべきと考えている。

それはともかく、憲法の権威という観点から、国民と憲法との距離が離れ過ぎないために、定期的な憲法改正が必要なのではないか。現在の国民からあまりにも時間的に距離のある憲法は、権威が薄れていくと考えるべきであろう。憲法の権威が失墜し、国家権力が憲法を軽視するようになってはならないのだ。権威なき憲法は、民主主義に飲み込まれてしまうことになるはずである。

人権を保障するためには、あらゆる権力は抑制されるべきであり、そのためには権力の相互抑制関係を構築することが肝要である。国民が「第1権力」を有する時代には、民主主義と立憲主義の緊張関係が人権保障のために必要不可欠となるのだ。

民主主義と立憲主義は協調関係を結ぶと同時に、緊張関係にもある。このアンビバレントな関係性こそが近代憲法の要諦であって、民主主義と立憲主義の本質をしっかりと捉えるためには見落としてはならないのである。

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