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ポピュリズム礼賛

2016年アメリカ大統領選挙におけるトランプ大統領の当選やEU離脱の是非を問うイギリス国民投票での離脱派の勝利などを契機に、ポピュリズムという言葉を耳にすることが増加した。そのニュアンスは否定的なもので、大衆迎合主義、あるいは衆愚政治といった観点から語られることがほとんどである。しかし私は、本稿でポピュリズムを礼賛することを試みる。

ポピュリズムには、その対置概念としてエリート主義がある。ポピュリズムの歴史は古代ローマにまで遡るが、歴史上に度々出現してきたポピュリズムの動きはすべてエリートやエスタブリッシュメントに反発するものである。たとえば、1890年代にアメリカに出現した人民党は、南部や中西部の貧しい農家による資本家への抵抗運動であった。この運動でポピュリズムという言葉は広く知られるようになる。

民主主義である以上、基本的にはより多くの支持を集めた政党が政権を担い、その政策が実現される。そういう意味では、ポピュリズムは民主主義の前提であり、なんら批判されるようなことではない。ポピュリズムが内包する欠陥は、そもそも民主主義自体の欠陥であろう。

ポピュリズムは民衆の常識感覚が反映される。民衆の素朴な視点は、エリート特有の独りよがりな見解や政策の歪みをあぶり出し、その行き過ぎに対抗するちからとなる。民主主義が多くの国々で採用されている理由は、まさに支配者階級の暴走に歯止めをかけるためである。しかしその反面、民衆は具体的な観点でしか物事を思考しない。すなわち、民衆には抽象的思考能力が欠落しているので、自分の近辺の問題には聡いのだが、マクロな視点を求められる国家規模の課題を理解することは、ほぼありえないと言わざるをえないのだ。

国家規模の課題を理解し、解決すること。このことがエリートに求められてきた役割である。だが、大衆化の進展した現代では、エリートたちはかつての貴族的なエリートとは異なり、そのために必要な教養や使命感を持ち合わせていないと私は感じる。現代におけるエリートとは、いわゆる世襲政治家や成金的資本家、それに専門家などであって、彼らの視点は自らに関係するところにしか向いていないのではないだろうか。

要するに、エリートたるべき人たちが、エリートの欠点ばかりを保持して、その美点をことごとく喪失しているのである。現代のエリートは「いびつな大衆」と化しているのであって、彼らが国家規模の課題を理解し、解決する能力など持ちえるわけがないのだ。

そのようなエリートの変質をいよいよ直観した民衆が、もはや彼らに国家を任せることは出来ないと観念し、反逆の声を上げたのが2016年の出来事であり、世界中に広がるポピュリズムの動きなのである。

私はエリートが好きだ。しかし、私が愛していたエリートはもはや絶滅し、歴史の物語のなかにしか存在しないものになってしまった。エリートが絶滅した現在では、エリート風の「いびつな大衆」的人物よりも、民意を明確に反映するポピュリズムのほうが賢明な選択肢といえよう。ゆえに、私はポピュリズムの動きを好意的に捉えているのだ。

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