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ヒョードル・ドストエフスキー「罪と罰」(7)

予審判事がラスコーリニコフの自宅を訪ねてきた。彼は「老女殺しは病的な頭脳が生み出した事件だ」と話し始めた。ラスコーリニコフは動揺する。

『じゃあ…一体、だれが…殺したって?…』

ポルフィーリーは、あまりにも唐突な質問に驚いたかのように、思わず椅子の背にもたれかかった。

『だれが殺したか、ですって?…』

信じられないとでも言いたげに、ポルフィーリーはラスコーリニコフの言葉を繰り返した。

『そりゃ、あなたが殺したんですよ、ラスコーリニコフさん!あなたが殺したんです……』

ポルフィーリーはラスコーリニコフに自首を促した。

『自首すればどれほどの減刑になるか。そしてあなたは犯行時に心神喪失だったことにします』

『問題は時間じゃない、あなた自身だ。太陽におなりなさい。そうしたらみんながあなたを仰ぎ見るようになる』

ラスコーリニコフは恩赦などいらないと、提案を拒否した。ポルフィーリーは、万一自殺を考えているなら遺書を遺すようにと言うだけで、ラスコーリニコフを逮捕しなかった。

ここには、ラスコーリニコフに対する、ポルフィーリーのある種の個人的共感が見え隠れしている。

ポルフィーリーの言葉
『ばあさんを殺しただけで済んで良かった。別の理屈でも考えついたら、一億倍も醜悪なことをやらかしていたかもしれないんです!』

ここで言う「一億倍も醜悪なこと」とは、おそらく皇帝暗殺のこと。実際、1866年4月に皇帝暗殺未遂事件があった。

「太陽におなりなさい」とは、どういう意味か。そもそもドストエフスキーの人間観では、罪を犯した人間こそ深い成熟が宿り、より偉大な聖人になれるという思想があった。それを踏まえると、つまり「太陽におなりなさい」とは自分自身の苦しみを人々に伝えなさい、そうして人々に光を与えなさいという意味と察せられる。

スヴィドリガイロフは、ラスコーリニコフの妹ドゥーニャに秘密を伝える。ラスコーリニコフがソーニャに対して殺人を犯したことを打ち明けた、と明かした。実は、スヴィドリガイロフはラスコーリニコフの告白を盗み聞きしていたのだ。

スヴィドリガイロフは、自分が金を出してラスコーリニコフを海外へ逃すので、自分の愛を受け入れるように迫った。しかし、ドゥーニャはそれを拒絶する。そしてスヴィドリガイロフから逃げようとして、拳銃を取り出した。「撃て!」と迫るスヴィドリガイロフに向けて、ドゥーニャは引鉄を引いた。弾丸はスヴィドリガイロフの髪を擦り、外れた。この時、スヴィドリガイロフは、ドゥーニャには自分への愛がないことを思い知らされた。

その後、ドゥーニャを解放したスヴィドリガイロフは拳銃自殺した。

『広場の中央まで来た時、ふいにある衝動に捉えられた。一つの感覚が彼のすべてを、肉体と精神を鷲掴みにした。ふいにソーニャの言葉を思い出したのだ。自分のなかのすべてが一気に和らいで、涙がほとばしり出た。立っていたそのままの姿勢で、彼はどっと地面に倒れ込んだ…。広場の中央に跪き、地面に頭をつけ、快楽と幸福に満たされながら、汚れた地面に口づけした』

警察に着いたラスコーリニコフは、崩れるように腰を下ろし、言った。

『ぼくが金貸しの老女とその義理の妹を斧で殺しました。金品を盗みました』

その後の裁判で、老女の金を使っていなかったことや抑うつによる心神喪失状態だったこと、さらには貧しい人に金を渡していた事実が認められて、ラスコーリニコフは情状酌量となり、8年のシベリアへの流刑となった。ソーニャも裁判所がある村に移り住んだ。

しかし、ラスコーリニコフは自分の罪と向き合うことが出来ずに、再び自分の殻に篭って苦しんでいた。

そんなある日、川のほとりにやって来たラスコーリニコフはベンチに腰を下ろすと、ソーニャがやって来ておどおどと手を差し出した。ラスコーリニコフはその手を取り、握り返した。

『ふいに何かが彼を捉え、彼女の足もとに彼を投げ出したかのようだった。彼は泣き出し、彼女の両ひざを抱きしめていた。二人とも青白く、痩せこけていた。しかし、そのやつれ果てた青白い顔にも、新しい未来の、新しい生活への完全な蘇りの光が煌めいていた。二人を蘇らせたのは、愛だった。彼はただ感じているだけだった。観念に代わって、生命が訪れていた』

「罪と罰」の作中で、ラスコーリニコフのなかでは何度も何度も揺り戻しが起きているが、その揺らぎが少しずつ小さくなっていく。

ソーニャはすべての始まりであり、生命の象徴でもある。「生命」は「他者」との繋がりを通じて、初めて輝きを帯びるもの。

ドストエフスキーは、「罪と罰」で生命自体に価値があることを伝えたかったのかもしれない。

ラストシーンで、ラスコーリニコフはソーニャの生命を実感したのだろう。そういう意味では、「罪と罰」は他者を発見する物語なのかもしれない。

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