ベネディクト・アンダーソン「想像の共同体」
ベネディクト・アンダーソンは1936年に中国の昆明で生まれた。父はアイルランド人で、母はイギリス人だった。ケンブリッジ大学を卒業後、アンダーソンはコーネル大学でインドネシア研究者となった。
アンダーソンは1983年に出版した「想像の共同体」で著名である。アンダーソンは「想像の共同体」において、ナショナリズムあるいはネーションがいかにして構築されるかを研究した。
ネーションは複数の意味を持つ言葉で、①国民、②民族、③国家、という意味がある。ゆえにナショナリズムとは、「ある文化を共有する民族が、国民として政治的なまとまりを持ち、国家を持つべきだ」という考え方のことをいう。
「ネーション(国民)はイメージとして心のなかに想像されたものであり、ネーション(国家)は人間の想像が生み出した共同体である」とアンダーソンは主張した。
ネーションは想像力のなかでしか存在しない。そこがほかの共同体と異なるところで、ネーションは想像力がなかったら、まとまりの根拠がひとつもない。したがってネーションは「想像の共同体」と呼ぶしかないのである。
また、どんなネーションも自分の外に別のネーションが存在することを前提としている。「自分たちは限られた存在である」と思っているのが、ネーションの重要な特徴なのである。
アンダーソンによると、ネーション(国民)が誕生する以前には、ヨーロッパには2つのかたちがあった。ひとつは宗教が人々を結びつけていた「宗教共同体」で、限られた人にしか読むことができない「聖なる言葉」が人々を支配していた。もうひとつは、神から正統性を授かったとされる王を頂点とする共同体である「王国」で、それは時には地域や民族の垣根を超えて人々を支配した。
共同体にいる人々は祈りの場で宗教画を目にするなどして、人生や死の意味はいつの世も変わらず、神に救われることだとしていた。しかし、航海術の発達によって異なる世界が発見されるようになり、こうした共同体の絶対性は揺らいでいった。
同じ頃ヨーロッパでは、大きな技術革新が起きた。印刷技術の発明である。印刷技術は資本主義と結びつき、日常の言葉(俗語)で書かれた印刷物が流通した。ここで小説や新聞が人々の意識を大きく変えた。
小説は離れた場所にいるそれぞれの人物を神の視点で描く。その結果、彼らが「ひとつの社会」のなかで暮らしていることを読者に想像させ、そうした感覚を持たせた。また、新聞によって、その言語が読める不特定多数の人々がニュースや話題を同時期に共有するようになった。小説と新聞が平等な「ネーション(国民)意識」を準備したのである。
アンダーソンは、ネーション(国民)の誕生がヨーロッパよりも南北アメリカで先に起こったと指摘する。彼が注目したのは、「クレオール」と呼ばれる植民地生まれの白人たちだった。彼らは同じ母国語を話す同じ白人でありながら、本国人からは差別されていた。
クレオールの官僚たちは植民地内の任地を転々としながら、植民地の首都を最終目的地とする出世の道を歩んでいく。アンダーソンはこれを「巡礼」と呼んだ。この巡礼の途中で、クレオールたちは同じような境遇の同僚たちと出会ったり、共通の新聞を読んだりする。そのなかでクレオールの官僚たちは、自分たちは本国人とは違う、誇りあるアメリカ人だとの意識を持ち始めたと、アンダーソンは指摘するのである。こうしたクレオールの意識が本国に対する独立運動へと発展していく。
南北アメリカ諸国は次々と独立を果たした。1776年アメリカ独立、1811年パラグアイ独立、1816年アルゼンチン独立、1818年チリ独立、1821年ペルー独立、1821年メキシコ独立、1822年ブラジル独立、1828年ウルグアイ独立と、短期間のうちに独立が相次いだ。植民地で急速に「ネーション(国民)意識」が芽生えたのである。
クレオールたちは、本国人たちよりも本国人らしいという自負しているが、実際には本国人には決してなれない。それが一種のルサンチマンとなって、誇りと劣等感が一体となった複雑な感情をクレオールたちは抱えているのである。
ネーションには独特な感覚がある。お互いはまったく見知らぬ他人であるにもかかわらず、同じひとつの時間と空間を共有している感覚だ。
また、ネーションは新しい価値を人々に付与した。ネーションが最も重要なアイデンティティであれば、そのために犠牲になって死ぬということは最高の栄誉となる。ネーションは「死」に意味を与える存在でもあるのだ。
ナショナリズムが定着した国は戦争に強く、産業化し、教育熱心になる。つまり富国強兵が実現する。そうなると、他国の支配者はそれに影響を受けてナショナリズムを導入し始める。このように「上から」成立したナショナリズムのことを「公定ナショナリズム」という。
たとえば、大日本帝国は「公定ナショナリズム」を導入したが、日本の徴兵制の導入(1873年)は当時世界一の強国であったイギリスに先駆けたものだった。最初の頃はナショナリズムが行き渡っておらず、さまざまな理由での徴兵拒否が8割以上あった。また、1872年には学制を導入したが、1900年には5割程度に過ぎなかった就学率が、1910年には9割を超えている。さらに1889年2月11日には大日本帝国憲法が発布された。こうして日本は近代国家へと変貌していったのだ。天皇を頂点とする連続性の物語が、国民意識が確立されていくなかで、歴史を遡及して作られていくのである。
『宗教信仰は退潮しても、その信仰がそれまで幾分なりとも鎮めてきた苦しみは消えなかった。そこで要請されたのは、運命性を連続性へ、偶然を有意味なものへと、世俗的に変換することであった。国民の観念ほどこの目的に適したものはなかったし、いまもない。偶然を宿命に転じること、これがナショナリズムの魔術である』
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