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自粛要請に補償を求める著名人たち

新型コロナウイルスの感染確認者が東京都で急増していることを受けて、小池都知事は2020年3月30日に緊急記者会見を開いた。※3月31日現在、東京都では521名の新型コロナウイルス感染が確認されており、そのうち死者が15名、入院中が466名、退院者が40名となっている。

小池都知事はその会見で「夜間から早朝にかけて営業するナイトクラブなど、接客を伴う飲食店で感染事例が多発している」と指摘し、若者にはカラオケやライブハウス、中高年の人たちにはバーやナイトクラブ、酒場などへの入店を控えるよう自粛を要請した。また、小池都知事は週末の外出自粛も要請していて、こうした要請は4月12日ごろまでをめどにしている。

小池都知事の要請には主に著名人から批判の声も聞こえてくる。たとえば、氣志團の綾小路翔は次のようにツイートしている。

「営業するな」とは言わずに「行くな」、圧だけかけて、ケツは持たない。これじゃ収束もしなければ、誰もがジリ貧なだけ。営業/活動の自粛? 構いません。その分、補償をお願いします。

また、イベント中止などが余儀なくされているライブハウスや劇場などの文化施設に助成金を交付するよう求める署名運動「#SaveOurSpace」は、3月31日に発起人らが記者会見を開き、30万筆以上の署名が集まったことを発表している。

政府や地方自治体からの自粛要請に対して「自粛要請するなら、損失補償しろ!」という声は世論から一定の支持を得ており、また文化に携わる著名人からこうした批判まじりの声は多数聞こえてくる。

私は著名人のこうした発言に得も言われぬ違和感を覚えている。そしてこの違和感の正体を私はいまだ掴めずにいる。そこで本稿ではこの違和感にまつわる思考を整理してみたいと思う。

違和感の原因としてまず挙げられるのは、そもそもビジネスとは、あらゆる利益を得るチャンスがあることの裏返しとして、あらゆるリスクも引き受けるべきであり、事業者が政府や地方自治体に対して補償を求めることは、ある種のビジネス倫理に反しているのではないかと感じることにある。すなわち、普段は儲けるだけ儲けて自由や豊かさをめいいっぱい享受している人々が、当然税金は税法に従って納めているにしても、困ったときには政府や地方自治体に補償を求めるのはアンフェアではないかと感じるわけだ。

いざという時には引き受けるべきリスクを政府や地方自治体に転嫁できるのならば、事業者はリスクを想定することなくビジネスを展開できるようになってしまう。そうなれば事業者はモラルハザードをきたし、野放図な事業経営が社会や経済に無秩序と混乱を招くことになって、世の中に悪影響を及ぼしてしまうだろう。

そのいっぽうで、今回のような危機や事態の急変はあまりにも大規模なもので、堅実な経営をしていた事業者であってもおよそ耐えきれない損失が生じているのも事実であろう。つまり経済の原則としては、ビジネスにまつわるリスクは事業者が自ら引き受けるべきものなのだが、その原則を適用すれば良いという杓子定規な態度ではたして問題はないのかとの疑問もあるのだ。

違和感の原因として次に挙げられるのは、補償という言葉にある。世間ではほとんど意識もせずに使われていると思うが、補償とは「ある行為による損失を補填する」という意味である。今回の場合は「ある行為」とは自粛要請のことを指すと思われる。

ここで重要なのは、補償に際しての行為と損失は因果関係を結んでおり、補償とは行為の責任の帰結として行われるということだ。つまり補償という言葉の裏側に隠れているのは責任論であって、著名人たちの補償を求める発言のなかに包含されているのは、政府や地方自治体のせいで損失が生じているという暗黙裡の認識なのである。

ここにきて、私は違和感を強くせざるを得ない。「政府や地方自治体が自粛要請しているのだから、それに伴う損失の責任が政府や地方自治体にあるのは当然じゃないか!」という声もあるだろうが、私はそうした意見には賛同しかねるのである。

今回の自粛要請は、政府や地方自治体が自らの利益のために行っているわけではなく、社会全体に共通する公衆衛生上の必要から自粛要請をしている。つまり公益性の極めて高いものだといえる。したがって、私権の制限は公益の実現のために一定程度認められるべきだし、その制限に伴う利益は社会全体が享受するわけであるから、損失補償は不必要と私は考えるのだ。

ちなみに、憲法22条(職業選択の自由に伴う営業の自由)からしても、憲法29条(財産権の保障)からしても、公益性の高い制限に損失補償は必ずしも求められてはいない。

また、仮に今回の自粛要請に伴う損失を政府や地方自治体が補償してしまうと、今後の危機対応に禍根を残すのではないかとも私は懸念している。戦争、テロ、災害、流行病などの危機対応の必要から、政府や地方自治体が社会全体に要請や命令をすることは将来にもありうるだろう。しかし、そのたびに損失補償をするということになってしまうと、危機対応のコストは飛躍的に大きいものになって、政府や地方自治体は要請や命令を出すことに及び腰になるだろう。そのために危機対応が遅れることはあってはならず、ゆえに過剰な足枷をかけるべきではないと私は憂慮するのだ。

違和感の原因はまだある。これは特に文化や芸術に携わる人たちに関する違和感なのだが、とても個人的な感覚に基づくものだ。

文化や芸術とは、動物としての人間の生存のために必須のものでは決してない。文化や芸術がなくとも生命や最低限の生活を維持することは可能であって、生活必需であるとは言えない。すなわち、社会が豊かであってはじめて必要とされるのが文化や芸術なのである。そうした性質から、文化や芸術に携わる人たちは社会に剰余利益が存在することを前提としてそれらを生業としているのだ。もし人々の生活が厳しいものになれば、文化や芸術に関連する支出は真っ先に切り詰められるもののひとつであろう。

こうした観点からすれば、文化や芸術の担い手たちには社会に対する日頃の大きな借りや恩義があるはずである。新型コロナウイルスの感染拡大は、人々の日常生活に大きな影を落としており、悲しみや苦しみを抱えている人も多いと思われる。このようなときこそ人々の心が少しでも柔らかくなるように、和らぐようにする使命が文化や芸術に携わる人たちにはあるのではないだろうか。少なくとも私はそう思う。

それにもかかわらず、彼らは政府や地方自治体に補償を求めてばかりで、自分や仲間たちの生活の心配ばかりをしている。私はこうした彼らの態度を情けなく感じているし、彼らはなんのために文化や芸術の活動を行っているのだろうかと大いに疑問に思ってもいる。極論をあえて言ってしまうなら、こうした事態に際して社会や人々に対する使命感を覚えないような人たちが文化や芸術に携わる必要はないとまで私は感じている。

もし私が文化や芸術に携わる人間ならば、危機に晒されている人々を少しでも心安らかにするためなら、どれだけの借金を抱えることになろうともさまざまな企画を実行するはずだ。それこそが社会や人々に対するわずかばかりの恩返しであるはずだし、こういうときに無力であるならば、文化や芸術などもはや無意味でしかないからである。社会が危機に際したときの文化や芸術の人間というのは、自分たちのことは差し置いて、まずは社会や人々に貢献するという姿勢が当然なのではないだろうか。

もちろん、文化や芸術の火は絶やしてはならない。しかし、文化や芸術は社会やそこで生きる人々があってこそ生業として成立するものでもある。それなのに我先にと補償を求める彼らの姿からは、文化や芸術の担い手としての使命感や尊厳など微塵も感じられない。そうした彼らの姿勢にはやはり違和感を覚えざるを得ないし、文化や芸術を愛する者としてとても残念に思っている。

以上、自粛要請に補償を求める著名人たちに対する違和感の原因を探ってきた。しかし、誤解しないでほしいのだが、自粛要請に伴って生じる痛みをケアしなくてもよいと言っているわけでは決してない。私が違和感を覚えているのは、事業者の経営倫理に関してであり、補償という言葉に隠された責任論についてであり、社会や人々の痛みや悲しみに寄り添うことなく自分や仲間たちに関する補償ばかりを求める文化や芸術の担い手たちの姿勢においてである。

そこで私は損失の補償ではなく、助成というかたちで文化や芸術に携わる人たちを救済していくべきだと考えている。補償は損失に対して行われるが、助成ならば損失とは無関係に資金を供与することができる。「自粛要請のせいで損失が生じたのだから、補償をしろ!」という責任論的な後ろ向きの発想ではなく、同じ共同体に所属する者同士としての助け合いという前向きな発想で、困窮状態にある人たちを救うことが可能なのである。

最後にもうひとつだけ。文化や芸術を守る立場を取ればカッコつけられるし、教養あるインテリぶることもできる。正直、そうしたほうが楽であろう。しかし、文化や芸術を絶対視することは、文化や芸術の精神をもはや失念していると心得るべきだ。絶対視とは盲信にほかならず、多様な価値観を尊重しなければ成立し得ない文化や芸術からは最も遠い立場のはずだからである。

また、現状への不満から安易に政治的立場に陥らないことだ。文化や芸術に携わる人たちには、もともと反権力の考えを持つ者が多い。そのうえ、自粛要請とはまさしく公権力から自分たちの活動が制限されることになるから、反権力的傾向と現状への不満が相まって政権批判などに結びつきやすい構造となっている。

だが、忘れてはならないのは、今回の危機は世界的規模のもので、文化や芸術以外の幅広い分野、産業でも痛みが生じているということだ。人類に共通の危機なのであって、そうした状況下で「自分たちは救われる価値がある!」というふうな態度で主張したり、政権批判を声高に展開したりすれば、文化や芸術はたちまち世間から見捨てられてしまうだろう。

危機の時代に人々が求めるのは、対立ではなく団結である。その団結の輪は権力側も例外とするものではない。批判精神を持つことは大切なことだが、自らが有する構造的なバイアスと世の中の動向をしっかりと意識したうえでなければ、とんだしっぺ返しにあうことになるので、注意しなければならない。

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