見出し画像

新型コロナという「解放区」

新型コロナウイルス感染拡大に伴う緊急事態宣言を受けて、日本のみならず世界各地でロックダウンや不要不急の外出自粛が実施されている。いつもは群衆でごった返している新宿や渋谷などでは人影もまばらとなり、営業を自粛している企業も首都圏や関西圏、中京圏、福岡市などでは数多くある。我々は先の見通しが立たない非常の時代を生きている。

しかし、非常のただなかにあるということは、裏を返せば日常から解き放たれた状態にあるともいえる。我々の日常の大半を束縛していた職場や学校は、緊急事態宣言で閉鎖されてしまった。日常にまつわるさまざまな軛が、我々の社会から突如として消失したのである。いや、正確にいえば社会自体が消失したというべきだろう。社会機能はすっかり停止してしまっている。

我々は社会における関係性によって、自らが何者であるのか、他者が何者であるのかを相互に規定しあっている。しかし、我々は働くことを事実上禁じられている。ほとんどの人にとって、自分が何者であるかは働くことによって規定されてきたから、我々は社会的なステータスを喪失した状況に置かれている。ライブを開催できない歌手やお笑い芸人、店を営業できない自営業者、教壇に立てない教師、出社できないオフィスワーカー、彼らはいったい何者であろうか。

それまで思い込んできた「自分は〇〇である」というアイデンティティを奪われて、多くの人は不安を募らせていることだろう。しかし、社会における関係性に縛られていないという状態は、我々が自由のなかにあることを意味している。我々は社会で生きていくためのペルソナを剥ぎ取られて、否応なく素顔を晒さざるを得なくなっている。社会的なステータスではなく、一個の主体的存在自体として唐突に放り出され、その真価が試されているのだ。

人は生きていくために社会を必要とするから、社会機能が停止した現在の状況は長くは続かないだろう。新型コロナウイルスの感染拡大が収束しようがしまいが、いずれ社会を再起動させていかざるを得なくなるはずだ。新型コロナで予期せずして発生した「解放区」は、全世界的なある種のモラトリアムでしかない。

このモラトリアムは、人々の人生観や社会のありかたを大きく変革させるだろう。私自身の経験を述べると、空がとてもきれいに見えるようになった。感受性が豊かになっていくのを実感している。社会的な関係性から解放されたことで、本来の人間性が回復している。社会的な関係性にがんじがらめにされ、社会に所有されてしまっていた「私」を取り戻している気がする。

世間では、外出自粛に関連するさまざまな問題が取りざたされているが、それらは我々があまりにも自由を喪失していたことのあらわれであるように感じる。自由には不安と孤独が必ずつきまとうわけだが、もし人々が不安と孤独に対する耐性を失くしているとするなら、それは不自由のなかで生きてきたがゆえのことであろう。

サルトルは「地獄とは他人のことだ」と主張した。現在の日本人のほとんどは、この言葉が理解できないのではないだろうか。他者のまなざしに服従することに慣れすぎた結果、我々は我々自身を喪失しているのだ。

新型コロナが予期せずにして生み出した「解放区」は、我々の実像を照らし出しているのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?