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新型コロナ危機と政策決定

新型コロナにまつわる危機は社会全体に及んでいる。ゆえに、全方位的な政策立案が求められているわけだが、その政策決定に大きな影響を与えている勢力が3つある。政治家、学者、そしてマスコミである。

しかし、彼らは危機から最も遠い人々であり、当事者意識、危機を自分ごととして受けとめる感受性が総じて低い。彼らはエリートであるから、危機によって自らの生活が脅かされる可能性がほぼないのだ。

ゆえに、彼らによる危機対応は極めて緩慢なものとなる。そして人々を危機から保護し、救済するための支援策は、声が大きくて目立つ人々ばかりに向けられることになる。ほんとうに苦しい人たちはきっと声を上げる余裕もないはずなのに、である。

実のところ、現在、日本で実施、あるいは議論されている支援策のほとんどは、事業者向けのものばかりだ。これによって支援を受けた事業者は、自らは助かるいっぽうで、派遣やバイトなどの非正規雇用者を容赦なくクビにしている。あるいは、クビにまではならないまでも、法定の休業手当すら満足に支払っていなかったりする。

人々を助けるための支援であるはずなのに、その支援がこれまでにないほどの無情な格差を作り上げ、分断を招いているのが実情なのである。

生活の実態を知らずに、社会を見渡して観察するセンスも持たない人々によって支援策が決定されているから、ほんとうに必要な人たちへの優先的な支援がまったくなされていないのだ。

政治家や学者、マスコミの大部分は「世間知らずのお坊ちゃん」たちによって構成されている。だから、この国では、ほんとうに必要な人よりも、目立つ人に支援が向かってしまっている。

すべての目的は「人間」になければならない。それにもかかわらず、「人間」の周囲の手段に過ぎないことを目的化してしまっている。実は、よく考えると、「自粛」も「経済」も手段に過ぎないのだ。そして手段というものは、往々にしてほかのものに代替可能である。

たとえば、経済は重要ではあるが、自粛のために経済が活動的でなくとも、当分の期間ならば、政府による経済政策や生活支援策によって充分代替可能だろう。

会社やお金といった「紙切れ」に過ぎないもののために、かけがえのない人間のいのちを危険に晒すなんて、そんなことは「異常な常識」でしかない。

また、困っている人を助けるための支援であるはずだが、その支援策が富裕な資本家たちに食いものにされているという事態が世界各国で起きている。それも手段に過ぎないものを目的と勘違いしているからで、しっかりと「人間」を目的とすれば、そんな犯罪的な間違いはなくなるはずだ。

コロナ危機によって、みんなが苦しい状況にある。しかし、それと同時に、実際の苦しさの度合いは人によって異なることも忘れてはならない。

政府や自治体による公的な支援はより苦しんでいる人に、より優先して向けられるべきなのであって、経営を持続していくための資金調達が比較的容易な事業者よりも、明日をも知れない生活困窮者にまず救いの手を差し伸べるべきなのではないだろうか。

しかし、さまざまなしがらみや生活への無関心などのために、政治家や学者、マスコミの影響下にある政策決定では、いつまで経っても必要な人たちに支援が向けられることはないであろう。そしてその矛盾と悲惨を彼らは「みんなで一致団結して〜」などといった美辞麗句で覆い隠してしまおうとするはずだ。

そうした彼らの欺瞞を、我々はしっかりと注視して、この世界の、この国の、この社会の歪んだ現実を認識しなければならないのである。

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