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サルトル(3)「地獄とは他人のことだ」

サルトルの実存主義にとって最大のテーマは「自由」であるが、それを脅かすのは「他人のまなざし」だと彼は主張している。サルトルは他者との関係を「地獄とは他人のことだ」と表現した。

1943年に出版された「存在と無」では、他人のまなざしがもたらす危機について「見る」か「見られる」かの決闘だとされている。対人関係はまなざしの闘いだとサルトルは主張したのだ。

人は「見る」ことによって世界の意味をさまざまに作っていき、いわば世界を所有していく。しかし、そこに他人がでてくると、自分が作った世界や考えていた世界を別のものに変えられてしまう。他人によって世界が盗まれる感じがして、自分の「存在の危機」となってしまう。

まなざしによって、私は対象に関係を持っている。ところが、私自身が他人に見られる立場になってしまうと、反対に関係される存在となる。自分が相手によって規定されてしまうのだ。他人によって規定される存在を「対他関係」という。こうした「見る」ことと「見られる」ことの闘いをサルトルは「まなざしの相克」と呼んだ。

「嘔吐」のなかで、街の有力者たちの肖像画と向き合った主人公ロカンタンは、肖像画の人物たちに「見られている」ことを意識してコンプレックスを感じてしまう。彼らは権利を持ち、義務を果たしている「立派な」人間であるのに対し、ロカンタンは何者でもなく、無価値な人間だった。しかし、ロカンタンが肖像画を見返したとき、彼自身が思い込んでいた肖像画の人物たちがまとう威厳はたちまち消え去り、あとには単なるぶよぶよとした肉体だけが残った。これがまさしく「まなざしの決闘」だったのだ。

サルトルはまなざしを向けられること自体を「他有化」と言った。「他有化」とは、自分が自分のものではなくなって、他人のものになること。「他有化」は「疎外」と同じ意味であり、マルクスとは違って、サルトルは「疎外」を引き起こすのは他人のまなざしだと主張したのである。

サルトルが他人のまなざしにこだわったのは、おそらく自身の外見に対するコンプレックスが根底にあっただろう。

しかし、社会において他人のまなざしを避けることは不可能である。サルトルはこのことを「自由の受難」、あるいは「人間の条件」と呼んだ。他人から見られた自分を積極的に引き受けることで、自由を得ることができるのだ。まず、他人から存在を規定されるが、次にそれを引き受けて行動することによって、存在を規定されることと行動を決意することのあいだにズレが生じる。そのズレのなかに「自由」があるとサルトルは主張した。

実のところ、まなざしの問題は抑圧や差別の構造を作り上げてしまう。たとえば、労働者は労働者として見られることで、階級の意識ができていくのだ。つまり自分が見られていることを自覚することで、その自覚に基づく「弱者の連帯」が成り立ち得るのである。

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