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サルトル(4)「アンガジュマン」

第二次世界大戦前のサルトルは、生きることの不条理や無意味性を繰り返し説いていた。政治とは距離を置き、哲学や文学に没頭していた。

サルトルは第二次世界大戦で徴兵された。そして1940年にサルトルは前線に出ないまま、ドイツ軍の捕虜となってしまい、収容所に入れられた。ここでサルトルはさまざまな階級の人と触れ合い、それまでの個人主義的な哲学から人間の行動や連帯を重視する哲学に目覚めていく。やがて収容所を抜け出したサルトルは、レジスタンス運動に身を投じていくことになった。

『アンガジュマンが行われるや否や、私は私の自由と同時に他人の自由を望まないでいられなくなる』

「アンガジュマン」とは、もともとは動詞の「アンガジェ」が語源であるが、その意味は①拘束する、②巻き込む、③参加させる、となっていた。これが名詞の「アンガジュマン」になり、「自分を〜」という意味が付与された。

作家は時代のなかに巻き込まれており、そこでは言葉も沈黙も意味を持ってしまう。逃れることができないのなら、時代に対して責任を持って引き受けようとするべきだ。これが「アンガジュマンの思想」である。すなわち、サルトルは傍観主義を否定したのだ。

しかし、サルトルは「嘔吐」では、主人公ロカンタンにヒューマニズム(人間中心主義)に対して「吐き気」をもよおさせていたのに、第二次世界大戦後の「実存主義とは何か」においては「実存主義はヒューマニズムである」と、高らかに宣言してしまっている。ここに関しては、矛盾を感じるほかはない。

「嘔吐」でヒューマニズムを体現していた独学者のセリフには、「人生は、そこに意味を与えようとすれば意味がある。まず行動し、なんらかの企てのなかに身を投じるべし。しかるのちに反省すれば、すでに賽は投げられており、人は束縛(アンガジェ)されている」とある。

ただ、サルトルの思考の特徴は「だれかに反して考える」、「自分に反して考える」ということにあるので、「嘔吐」では自分のなかにもともとあった2つの対立する考えを登場人物たちに語らせているのかもしれない。

「人間は主体的に自らを生きる投企(プロジェクト)なのである」

それぞれが自らの態度を表明することが、アンガジュマンなのだ。人間の運命は人間の手中にあるのだから。

サルトルは、認識においては悲観主義だが、意志においては楽観主義である。

旗色を鮮明にすれば愛されもするし、憎まれもする。しかし、それを怖れることなく、傍観主義を排し、逃れることのできない時代に対して、主体性と責任を持って引き受けようとするべきなのである。

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