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日本社会はなぜ安定しているのか?

日本ほど安定している社会はない。誰もかれもが昨日と同じ今日が始まり、今日と同じ明日がこれから先も続いていくと信じている。終戦直後から安定成長期に到るまでは、日本社会も目まぐるしい変動のただなかにあったと思うが、少なくともバブル崩壊以降、日本社会は社会的課題は山積しているにもかかわらず、低位安定しているのは間違いないだろう。

日本社会はなぜこれほどまでに安定しているのだろうか。その答えはさまざまな要因に求められるだろう。しかし私は、この国がある種の「シンジケート」の形態にあるからだと考えている。

シンジケートとは、ひとつの意味としては、企業の独占形態のひとつで、カルテルの発達したもので競争関係にある企業が競争緩和のために共同の中央機関を設け、生産割り当てや共同購入や販売などを行うようにした企業組合のことをいう。また、別の意味としては、売春や暴力などを行う、大がかりな犯罪組織のことをいう。

あらかじめ断っておくが、私はこの国を支配する固有名詞つきのシンジケートがあって、そのシンジケートには明確な主導者がいて、その構成員が指示に従って動いているというふうな、ある種の陰謀論を主張しているわけではない。そうではなくて、エスタブリッシュメントのなかで利益の独占と分配(あるいは共有)が成立するような社会構造と力学が存在することを指摘したいのである。

シンジケートの構成員はこの国のエスタブリッシュメントのほとんどすべての者たちであり、そこには与党とか野党とか、経団連とか連合とか、政治家とかマスコミとか、そうした表面的な対立は意味を持たない。彼らは利益を基盤にして繋がっているからだ。

しかし、彼らが個別に談合していることは少ない。重要なのは、彼らは単に自らの利益を追求しているだけなのだが、その結果としてシンジケートの形態が成立し、継続しているということだ。だれかがシンジケートを支配しているわけではなく、既存の社会構造や力学が「見えざる手」となってエスタブリッシュメントの動きをコントロールし、エスタブリッシュメント内での利益の独占と分配が自動的に行われているのである。

以上がこの国に存在するシンジケートの形態となる。日本社会が安定しているのは、こうしたシンジケートの形態が確固たるものとなっているからにほかならない。その帰結は「安定的な格差拡大」である。社会の流動性はほとんど枯渇しており、人の一生はほぼ生まれながらにしてすでに決定している。恵まれた者はますます豊かな生活を謳歌するようになって、反対に恵まれない者はますます悲惨な生活を送らざるを得なくなる。日本社会はその安定性と引き換えに、多くの人から「人生そのもの」を簒奪しているのである。

こうしたシンジケートは歴史上にも見ることができる。そしてシンジケートは、多くの場合、独裁的な権力によって打倒されてきた。カエサルやナポレオン、織田信長、ヒトラーなどがそうした役割を果たしてきた。彼らはシンジケートを徹底的に破壊することで社会を変革し、その結果として多くの人々から恨まれ、最後には殺される(あるいは自殺)ことになった。しかし、彼らが変革した社会は彼らの死後も間違いなく残ったので、人々は彼らの犠牲のうえに閉塞感を打破した社会を享受したのである。

ゆえに、もし私が「日本社会を変えるために必要なことはなんですか?」という問いに答えるならば、「独裁者が必要だ」と断言するにほかはない。ある独裁者が突如として登場し、シンジケートを徹底破壊したうえで、最後にはまるで人々の罪を贖うかのように殺されるという一連のムーブメントが、日本社会変革のためには必要なのである。そうした動きがないままならば、日本社会はいつまで経っても「安定」したまま、いずれ「緩慢なる死」を迎えるしかなくなるのだ。

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