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ヒョードル・ドストエフスキー「罪と罰」(4)

ある日、ラスコーリニコフはソーニャという女性に出会う。ソーニャは信心深く、美しい娘だったが、貧しい家族のために娼婦をしていた。彼女は父親を馬車の事故で亡くし、悲しみに沈んでいた。途方に暮れていたソーニャのために、ラスコーリニコフは母が送ってくれていたなけなしの金を父親の葬儀代としてソーニャに渡した。

その帰り際、ソーニャの妹がラスコーリニコフに駆け寄ってきて、お礼とともにキスをした。すると、ラスコーリニコフの身体には力が湧いてきた。

『俺の生命は、まだ、あの老いぼれババアと一緒に死んじまったわけじゃない。今こそ理性と光の…意志と力の王国が訪れたんだ…』

ソーニャの妹は汚れのない純粋無垢な存在で、すべての許しを与えられる存在だ。これにキスをされるということは、神に代わる存在として、ソーニャの妹がラスコーリニコフに許しのきっかけを与えたことになる。

ソーニャは信心深いが、教会に行くことはない。ゆえに、彼女は神に縋って、ひたすら許しを期待する、願望するという孤独のなかにいた。彼女は熱心に、ただひたすら聖書を読むことに取り組んでいた。

そんなソーニャについて、ラスコーリニコフは神の掟から外れてしまった者同士という共同体的な意識を持っていた。ソーニャは神から与えられた身体を金に換えているし、ラスコーリニコフは人殺しをして金品を手に入れた。そういうわけで、ラスコーリニコフは「ソーニャならわかってくれる」という一方的な期待を彼女に寄せていた。

ラスコーリニコフには、二律背反する気持ちを抱えていた。俺みたいな人間がこんなところで燻っているのはおかしいという気持ちと、俺みたいなどうしようもない人間はいないという気持ち。そのなかで、ラスコーリニコフの気持ちは常に不安定で、揺れ動いている。

ラスコーリニコフのもとに、母と妹のドゥーニャがやって来る。ドゥーニャが成金弁護士と結婚するために、田舎から上京してきたのだ。ラスコーリニコフは妹の結婚に断固反対する。結局、妹の結婚について物別れになったまま、母と妹は旅館に帰ってしまった。

その後、ラスコーリニコフは友人のラズミーヒンを伴って、予審判事であるポルフィーリーを訪ねた。予審判事がラズミーヒンの親戚だと知り、予審判事に対して自分が高利貸しの老女の質入れ客の一人だと説明するために訪問したのだ。しかし、実のところ、老女殺しの疑いが自分にかけられていないかを直接確認することが、ラスコーリニコフの真の訪問目的だった。

ちなみに、予審判事とは自ら操作を行い、公判すべきかどうかを判断する裁判官のこと。

予審判事はラスコーリニコフとの会話のなかで、ラスコーリニコフが著した「犯罪論」という論文に触れる。その内容は「社会には、革命を起こしたりする天才とそれを邪魔する凡人がいる」というもの。

『ケプラーとかニュートンとかの発見が、色んな事情が重なり、もうどうしても世間に知られそうにない、ということになったとします。しかし、それが発見の妨げだとか、障害とかになって立ち塞がっている一人の人間、もしくは十人、百人、あるいはそれ以上の人間の生命が犠牲になることで世間に知られるようになるとしたら、その十人なり百人なりの人間を亡き者にする権利がある、いや、それどころか、彼の義務と言っても良いくらいなんですね』

それから、予審判事はラスコーリニコフのアリバイを問い詰めた。

ラスコーリニコフには罰への恐怖はあるが、罪の意識はない。その「罪と罰」のアンバランスがこの作品のテーマとなっている。

罪の意識は他者の存在が前提となっている。自分に対する他者の信頼や誠実を裏切ることで、罪の意識を感じることになる。

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