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フェイクニュースははたして問題か?

戦争、テロ、災害、疫病、恐慌など、社会が危機の渦中にあるときはとかくデマが流されがちである。最近ではデマ(デマゴギー)のことを「フェイクニュース」などと言ったりもする。

「フェイクニュース」という言葉は、2016年のアメリカ大統領選で当時候補者だったトランプ大統領が使い始めたことで広く知られるようになったと私は記憶している。トランプ候補に批判的なニューヨークタイムスやワシントンポストなどの報道に対して、トランプ候補が主にツイッター上で「フェイクニュースだ!」と揶揄したのである。インターネット世界の拡がりなどにより、人々のマスメディアへの信頼は著しく低下している。その国民感情を代弁するかのように、トランプ候補はマスメディアの報道をそのように攻撃したのである。

そうした「フェイクニュース」攻撃がしばらく続くと、マスメディア側はよほど腹を据えかねたのか、今度はマスメディアがトランプ候補の発言を「フェイクニュースだ!」と指摘する報道を始めたのである。

そもそも「フェイクニュース」には「ニュース」という語が使われているわけだから、もともとは当然ながらマスメディア批判の言葉だった。だが、本来の用法は矛先を向けられた側のはずのマスメディア自身によって換骨奪胎されてしまい、マスメディア以外に対しても用いられるようになって、いまや広く人口に膾炙している。

「フェイクニュース」はしばしば問題視される。偽情報なわけだから、その有害性はもはや当然だと見なされている。さらには「フェイクニュースを規制すべきだ!」というふうな強硬的な立場の者たちもいる。しかし、ほんとうに「フェイクニュース」は問題なのだろか。

「フェイクニュース」を問題視する人たちの多くは、世の中には事実に基づく情報ばかりが溢れていて、その清潔な社会を汚す不届き者が「フェイクニュース」なのだという思い込みを持っている印象がある。だが、現実はそんな清廉潔白な世界では決してない。むしろ思惑含みの情報ばかりが飛び交う「汚い社会」に我々は生きているのだ。少なくとも私はそう認識している。

一般人の意見発信などについてはここでは触れないことにして、影響力の大きいマスメディアに的を絞ってここでは論考するが、マスメディアは国営のものを除いて、基本的に商業メディアである。すなわち、購読料や広告などによる収入(売り上げ)がなければ存続できない存在なのだ。マスメディアは自分たちの商売の手段として世の中の出来事を報道しているという厳然たる事実を押さえておかなければ、マスメディアとそれによる報道の本質を見誤ることになる。

商業メディアである以上、マスメディアはセンセーショナルな報道を追い求める。なぜなら人々は刺激を常に欲していて、その欲求を満足させてくれそうなものに反応するからである。そうしなければ、特に各種各様のエンターテイメントがところ狭しとひしめき合っている現代社会のなかでは、マスメディアは生き残っていけないだろう。利益を追求するのは商売人の性であって、どれほど良識派を演じていようとも、薄皮一枚剥いでみれば剥き出しの欲望が蠢いているのは間違いないのだ。

ピューリツァー賞に名を残したジョーゼフ・ピューリツァーは、19世紀後半ごろに成功した新聞出版者であるが、彼の買収した後の「ニューヨーク・ワールド紙」はイエロージャーナリズムを積極的に展開して、その発行部数を急激に伸ばした。人々の感情を煽る紙面に読者は夢中になったのだ。人々が求めているのは、たとえば退屈な国会中継ではなく、刺激的なニュースショーなのだということがこのことからもわかるだろう。

あらゆる情報には発信者が存在する。発信者がいない情報は絶対にあり得ない。つまりあらゆる情報は発信者の介在を経て流通しているのである。よく「中立公平な報道」などと言われるが、そんな無色透明な情報は理想ではあっても世の中に存立し得ない幻想でしかないのだ。

それにもかかわらず我々は、情報には発信者が存在することに極めて無関心で注意を払おうともしないし、意識したとしても彼ら(発信者)の良心を無条件に信頼しようとするわけで、情報に一喜一憂するだけの滑稽極まりない姿を憐れにも晒しているのである。

我々は、悲惨なニュースを見て涙を流すことのできる自分の「良心」に陶酔し、気持ち良くなっているのだ。

現代社会において、報道は消費されるひとつのコンテンツとなっている。そして人々が求める「良質な報道コンテンツ」とは、自らの喜怒哀楽の感情を揺さぶってくれる刺激的な報道なのだ。だからマスメディアは人々が求める報道を提供することに日夜努力していて、しのぎを削っているわけである。マスメディアにとって、人々の欲求を満足させることが、自らが繁栄するための最も良い方法だからだ。商業メディアである以上、この宿命からマスメディアが逃れることはできない。

ここまでマスメディアに限定して考察したが、基本原理はすべての発信者に共通している。目的がお金であれ、自己顕示欲であれ、名誉であれ、人々の耳目を集めることがその満足のために必要不可欠なのであり、注目を集めるためには刺激的であることが必須要件なのである。だから情報は、発信者介在のためにもともと存在するバイアスがスパイラル的に増幅されて流通していくことになるのだ。

したがって、極端に言えば「フェイクニュース」しか世の中にはないのであって、そんな世界で「フェイクニュース」を憂いてみても無意味でしかないし、「フェイクニュースを憂いる」という報道も「フェイクニュースを憂いる私に陶酔したい」人たち向けのセンセーショナルな報道コンテンツにすぎないのである。

ここまでくるとニヒリスティックで救いのない感じになってしまうかもしれないが、それでも「事実に基づく情報」を欲しがる人もいるだろう。そうした人たちのために唯一の方法を提示したい。それは「規制などは一切せずに、情報空間の多様性のみを追求する」ことである。

どういうことかというと、まず前提として、人間には「事実を知りたい」という欲望が存在するのだが、そうである以上、面白いもので「フェイクニュースを叩く報道」というのも刺激的な報道コンテンツのひとつとなるのだ。そしてこうした報道、つまり発信者同士の叩き合いこそが、実は「フェイクニュース」に対する最も強力な抑止力となって、発信者の野放図な報道を抑制することになるのである。

すなわち、「フェイクニュース」を防ぐためには発信者同士に相互監視をさせることが最も有効で、そのためには情報空間の多様性だけが必要なのであって、多様性を担保するための自由さえ保障されていれば、仮にあるひとつの「フェイクニュース」が流通したとしても、それは時間の経過とともに淘汰されていくことになるのだ。

こうした観点からすれば、問題なのは「フェイクニュース」それ自身よりもそれに託けた規制論なのであり、「フェイクニュース」が流通することは、多様性ある情報空間さえ保たれていればいずれ淘汰されるわけだから、さしたる問題ではないのである。

社会とは人々の欲望と思惑が蠢きあい、時に衝突する場なのであり、残念ながら、我々はその「汚らわしさ」と共存していくほかにないのだ。

「地獄への道は善意で敷き詰められている」--ヨーロッパのことわざ


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