指導者の条件
危機に際しては、指導者の資質が否応なく問われる。
では、指導者の条件とはなにかというと、私はひとつしかないと思っている。それは「独断と偏見」を持つということだ。
世の中にはさまざまな意見がある。それはほぼ人の数だけあると思ってよい。そうであるから、いわゆる民主的な議論をいくら尽くしても、それは延々と展開され、時間だけが空虚にすぎていくのみとなって、意見はいつまで経っても集約されないことになる。
指導者とは、そうした議論の限界を乗り越えるために存在する。もし議論を民主的に尽くすことですべてが解決できるのならば、指導者など必要なく、お飾りにすぎないだろう。しかし、現実はそうではない。指導者には議論では解決できない諸問題を解決するために存在するのであり、「決断」が求められるのだ。
「決断」とはいかにして行われるべきか。足して2で割る式の日本的な決定は、なんら問題を解決しない。したがって、指導者の「独断と偏見」を以って決断を下すしかほかにないのである。そして結果が出ればそれでよし、結果が出なければ潔く身を退くことで責任を取る。指導者とは、それだけの覚悟を持たねばならないのだ。
「認識する」ことと「決断する」ことのあいだには、大きな断絶があることを理解しなければならない。その断絶を乗り越える唯一の道は、「独断と偏見」による決断なのである。
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