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自由に関する一考察

長いあいだ、私は自由主義者であることを自任して生きてきた。しかし近頃は、自由とは甚だ虚しいものだとも思うようになってもきている。

私が自由に価値を認めるのには、懐疑論が深く結びついている。幼い頃から学校教育が与えてくる権威的「正解」に反発してきた私は、巷間流通している常識なるものに自然と疑り深くなった。

現在の世界には、絶対的に確かなるものは存在しない。あくまで確かさの確率が高いものを「事実」として受け入れているだけだ。たとえば科学の世界では、反証されていないものを取りあえず「事実」と認定し、反証されたならば「事実」を速やかに更新するという手法を採っている。

そのような現実からして、我々は「正解」のわからない世界に生きていると認識するべきだ。だからこそ、自由に価値があると私は考える。

もし「正解」がわかっているならば、その「正解」に向かって社会全体が団結して進めば良いのであり、自由などまったく価値はなく、むしろ百害あって一利なしのノイズにしかならないだろう。「正解」がわからないからこそ自由に価値がある、正確に言えば、「正解」がわからない以上は自由に任せるしかほかにないというのが実情なのである。

たとえば共産主義政権は自由を著しく制限するが、それは彼らは「正解」を知っていると自惚れているゆえ、自由の必要性などまったく感じないからだ。

自由というのは前向きで、素晴らしい価値であるように一見思えるが、実際は絶対的な価値や事実を持たない人間の遣る瀬なさに由来するものなのである。自由自体がなにかを保証しているわけではないし、人類の数々の壊滅的失敗から導出された「仕方なし」の態度から成立したものなのだ。

ジョン・スチュアート・ミルは自由について、危害原理を提唱した。危害原理とは、ある個人の行動の自由を制限したり、干渉したりすることが唯一可能なのは、その個人が他人に対して危害を加えることについて抵抗するときだけ、という原則のことだ。

「人類が、個人的にまたは集団的に、 だれかの行動の自由に正当に干渉しうる唯一の目的は、 自己防衛だということである。すなわち、文明社会の成員に対し、 彼の意志に反して、正当に権力を行使しうる唯一の目的は、 他者にたいする危害の防止である」--J・S・ミル

つまり他者に危害を加えない限り、なにをやってもそれは自由だとミルは主張したのである。これに関連して、有名なのが愚行権だ。愚行権とは、たとえ他の人から「愚かでつむじ曲りの過ちだ」と評価、判断される行為であっても、個人の領域に関する限り誰にも邪魔されない自由のことである。

自由に関する議論は、近代思想において中心的なテーマのひとつであった。ゆえに、ミルの理論以外にも多くの主張がなされてきている。しかし、ミルよりも幅広な自由を認めた理論は、一部を除いてほとんどない。

ミルの主張の前提には、当然ながら「個人」という概念が存在する。危害原理は、個人の領域の絶対性を強く保障しているのだ。絶対性とは、その性質からして完全な排他性を伴う。個人の領域と他者の領域はお互いに独立し、重複してはならないとミルは考えたのであろう。

だがしかし、こうした自由にはどうしても虚しさがつきまとう。まず第一に、この想定には社会という概念がほとんど抜けているも同然だからだ。他者は確かに存在するが、社会が存在しない。社会とは無色透明のものではなく、各々がつながりやしがらみによって結びつけられている場である。無色透明な個人と他者を想定した自由というものには、社会的結びつきが希薄であるため、いつも虚しさがつきまとうのだ。

第二に、自由はそれ自体では懐疑論に由来する消極的なものにすぎず、ゼロの地点に留まり続けるだけで、前進しているという感覚を得ることはないのである。上下の感覚のない無重力状態の宇宙空間で宙ぶらりんになっている状態こそが、自由の極限状態なのである。

すなわち、自由そのものだけでは人間や世界は虚しくなるいっぽうであり、自由をいかなる価値と引き換えるかというところに到って、初めて自由はなんらかの価値を生じるのだ。自由とはあたかも貨幣のごとくあり、それ自体には価値なく、交換することによって価値が見出されるものなのだ。

ミルは確かに愚行権を認めた。しかし、それは絶対的な「正解」なき現実を鑑みてのことであり、ミルといえども愚かな行為を推奨しているわけではない。なにが「良い」行為であり、なにが「愚かな」行為か、それは究極的には不可知であるゆえの愚行権の許容であったのだ。

しかし、懐疑論や不可知論はあくまで方法論であって、これらの段階から歩を踏み出していかなければ、人間はニヒリズムに呑み込まれてしまうであろう。自由の背後には常に虚しさが潜んでいるのだ。

いくら自由だ、自由だとは言っても、なにか確かなことを見出し、そのために自由を割譲しなければ、まったく無意味な自由でしかないのである。

自由とは、かほどに弱々しく、頼りないものなのだ。

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