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サルトル(2)「人間は自由の刑に処せられている」

サルトルの著書「実存主義とは何か」のテーゼのひとつが「人間は自由の刑に処せられている」である。人間は自由な存在であるがゆえに、孤独や不安から逃れることはできない。

『人間は自由である。人間は自由そのものである。一方において、神が存在しないとすれば、我々は自分の行いを正当化する価値や命令を眼前に見いだすことはできない。我々は逃げ口上もなく孤独である。そのことを私は、人間は自由の刑に処せられていると表現したい』

人間は自由から逃れられない。自らを規定するものはなにもないということが人間に課せられた自由であるが、そこには常に不安や不条理がつきまとう。なんの基準もない状況のなかで、自らで決断しなければならないのだから、自由には不安がつきまとうのだ。

すなわち、①我々の存在は偶然である、②我々の存在は無意味で不条理なものだ、③ゆえに人間は自由だ、④したがって、不安は不可避である、ということになる。

サルトルの小説「嘔吐」の主人公ロカンタンは、ある日、あらゆる存在が偶然にすぎないと気づき、生きていくことの不安に苛まれる。そこで元恋人に会いに行く。彼女(アニー)は女優で偶然でない生き方を追い求めていて、彼女はそれを「完璧な瞬間」と呼んでいた。ロカンタンもかつてはそれを信じ、世界中を旅したりしていた。しかし、久々に再会した彼女は「完璧な瞬間」など存在しないと人生を諦め、金持ちの愛人として暮らしていた。絶望したロカンタンは、生きる意味を見失ってしまう。しかし、それと引き換えに「自由を手に入れた」と気がつく。

『これなのか、自由というのは。私は自由だ。もう生きる意味がないのだから。私の試みたすべての生きる理由はなくなって、その他の理由はもう想像することもできない。私の過去は死んだ。ロルボン公爵は死んだ。私は独りきり。独りきりで自由だ。しかし、この自由はいくぶん死に似ている』

ロカンタンが気づいた自由は、高揚感の伴うものではなく、死に似ている自由であった。

人は自由という不安から目を背けるために、必然的な存在であろうと振舞っている。自分は〇〇な人間であるという物語を作って、自分を正当化しているのだ。

ロカンタンは自由の怖さに気づいて、現実逃避していた。彼は旅をしたり、歴史書を書くことで不安から逃れようとしていた。

『私の全生涯は背後にある。それがそっくり目に見える。そのかたちや私をここまで連れてきたゆったりとした動きが目に見える。それについて言うべきことは、ほとんどない。勝負に負けた。それだけのことだ』

『過去もなく未来もなく、現在から現在へと移り行く実存するものの背後で、日々少しずつ解体され、剥げ落ち、死に向かって滑っていくこれらの音の背後で、メロディは常に変わらず、若々しく毅然としている。私もやってみることはできないだろうか。それはもちろん音楽や歌ではないだろう。そうではなく、別のジャンルでやってみることはできないだろうか。それは一冊の本でなければなるまい。ほかにはなにもできないのだから』

こうしてロカンタンは、小説家への道を歩みだすのである。

音楽を聞いていると、ロカンタンの「吐き気」がなくなった。音楽はひとつの規定されたあり方が必然的な時間である。もしかしたら、必然的な時間を作り得るという希望がロカンタンの不安を打ち消したのかもしれない。

実存の世界を去ることはできないが、そこで一編の物語を書くことで、必然的な世界を作ることができる。すなわち、必然的な存在にはなれないけれども、そういう世界を作ることはできる。だれかの物語には沿わずに、自分の物語(人生)を作ることはできるのだ。

つまり「嘔吐」は「自分のあり方探し」の物語である。ロカンタンは最後に自分の生き方を選んだのだ。

既成概念を否定するところから出発すると、社会のなかではしばしば孤立する。しかし、サルトルの考え方に基づけば、そうした孤立を怖れずに生き方を模索するべきとなる。

人間は自由の刑に処せられているが、それを引き受けて主体的に生きていくことはできるのだ。

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