見出し画像

春の雪に三島由紀夫をふと想う

2020年3月29日のきょう、満開の桜が咲き乱れているなかに季節はずれの雪が舞っている。まさに春の雪だ。外出自粛の静謐な日曜日でもある。

新型コロナウイルス感染拡大への対応を巡って、世の中は議論百出の様相である。収束見通しのつかない状況に社会ではフラストレーションが充満し、また人々は心身ともに疲弊しつつある。高齢者のみが危険であるかのような報道の影響からか、若者は感染拡大にさして危機感を持たず、自粛要請もどこ吹く風と能天気で世間を呆れさせている。高齢者は暇の特権ばかりとスーパーやドラッグストアに殺到し、生活必需品の買い占めに走っている。各国政府が感染拡大防止のための対策やメッセージ、経済対策の策定などを力強く打ち出すいっぽう、我が国の政府の対策やメッセージは国民に届かず、また対応スピードも遅々としている。

こうした状況に、この国はどうしてこうなったのかと嘆かざるを得ないし、この国ももう終わりかと悲観せざる得ない。そして、もし三島由紀夫が生きていたら、いまの日本をどのように思っただろうと現在を生きる者として恥ずかしくなる。

1970年11月25日、三島由紀夫は自衛隊市ヶ谷駐屯地の総監室にて割腹自殺した。彼の遺作となったのが「豊饒の海」であり、その第一巻が「春の雪」だ。彼は自決する約4ヶ月前の1970年7月7日に「果たし得ていない約束-私の中の二十五年」と題された文章を新聞紙上に発表している。

「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである」

この国とこの国の人々に期待することが年々少なくなってきている私は、この三島の指摘を時折思い出しては「やはり三島先生は正しかった。そしてあのとき、あの瞬間にこの国はもう滅びてしまっていたんだ」とひとりごちる。

あのとき、とは、もちろん1970年11月25日の三島由紀夫が自決した日のことだが、私にとっての「あの瞬間」とは、三島が総監室のバルコニーからの演説中に絶叫したときである。

「おまえら聞けぇ、聞けぇ!静かにせい、静かにせい!話を聞けっ!男一匹が、命をかけて諸君に訴えてるんだぞ。いいか。いいか…」

総監を人質に取った三島の要求を受け入れ、自衛隊は市ヶ谷駐屯地にいた隊員たちを総監室のバルコニーから見下ろせる広場に集めた。その隊員たちに三島は決起を促す演説を始めるのだが、隊員たちは「降りてこい!」とか「ふざけるな!」などの野次を飛ばし、また上空ではテレビ局のヘリコプターが轟音を立てて旋回していたため、騒然とした雰囲気となった。三島の命をかけた決死の訴えに、耳を傾ける者はほとんどいなかった。

おそらく三島は一縷の望みをかけて、この決起をしたのだと思う。ほとんど絶望していてもなお、まだ「日本」にわずかな期待をしていたはずだ。国を想う至誠の心に共鳴する者がきっといるはずに違いない…。だが、三島の決起に対する反響は、罵詈雑言を尽くした野次と戦後日本人の典型的な特徴といえる冷笑であった。

こうして三島由紀夫はこの国の人々に徹底的に裏切られた。裏切られることは予見していたと思うが、あまりにも残酷な裏切りであり、ここまでとはさすがの三島も思っていなかったはずだ。

いまにして思えば、三島の決起に対する人々の姿勢こそこの国が「からっぽ」になっていることをまさしく証明していたのである。人が命をかけた訴えにすら、傾聴するだけの人間性を人々はもはや失ってしまっていた。

いまを生きる我々は、すべてにおいて損得勘定ありきとなっており、形而上的な価値というか、尊厳や誇り、使命感といったものを徹底的に馬鹿にするようになってしまっている。これでは自分の利益にならないことにはだれも取り組まなくなってしまい、今回のような危機に際して社会全体が無力になるのは当然といえよう。

我々はすでに大切なものをなくしたまま、あらゆることに自己弁護とごまかしを糊塗しながら、大義なき人生を生きている。そう、わが日本はすでにあの瞬間に滅びていたのだ。我々は名前のない国を漂流し続けている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?