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言葉とは常に虚構である

私は文章を書くことが嫌いだ。文章を書くとき、自分の頭や心にあるものをできるだけ忠実に言語化しようといつも試みているのだけれども、結局はもやもやした残尿感のようなものや嘘くささが残ってしまい、すっきりしない。私にとって文章を書くという行為には、常に気持ち悪さがまとわりついている。

長いあいだ、私はその気持ち悪さを自分の表現力が足りないからだと思い込んできた。表現力が向上していけば、いずれはすっきりした文章が書けるようになるだろうと無邪気にも信じていたのだ。しかし数年前、どうやらそうではないということが、少しずつわかり始めてきた。「言葉とは常に虚構である」ことに気づいたのだ。

たとえば、卵という言葉がある。卵と耳にしたとき、私の頭にはあの白い楕円形の縦長の物体が浮かんでくる。でも、ある人は卵と耳にしたとき、白玉ではなく赤玉を思い浮かべるかもしれない。また、そのサイズや質感も人それぞれだろう。さらに言えば、キリスト教徒ならばカラフルなイースターエッグを連想するかもしれない。

このように我々が言葉に触れたときに想定する事物は、人によって異なる。我々はそれにもかかわらず、私とあなたは同じ認識を了解していることを前提として言葉を交わしているのだ。卵という言葉を交わすとき、我々は必要がなければ卵の詳細まで説明したりはしない。だから、頭にある卵のイメージはふたりのあいだでバラバラのまま、会話は展開されることになる。いや、究極的にはどれだけ言葉を尽くしても、卵に対するふたりのイメージが完全一致することはない。あくまで誤差を縮小するだけで、誤差自体がなくなることはない。

つまり言葉というものは、具体的な事物そのものから離れたところにあるのだ。これを抽象化というわけだが、言葉は抽象化されているがゆえに、経験を共有していない者同士でコミニュケーションすることができる。これが言葉の最大の価値であり、人類がほかの動物と一線を画した最大の理由でもある。

さらに言えば、人は言葉を交わすとき、言葉が表す抽象化された概念から自らの経験に引き寄せ、その経験を辞書として用いることによって言葉を具体化する。しかし、具体化された言葉は当然ながら聞き手の経験に依存するので、聞き手と語り手の経験が不一致である以上、具体化された言葉はそれぞれにおいて異なるのである。

これは文章を書くときも当てはまる。言葉は他者の存在を前提に成立するから、文章であっても聞き手と同様の存在である読み手が仮定されているからである。語り手は書き手となり、聞き手は読み手となるだけで、ほかは基本的には変わらないのだ。

文章を書くという行為には、何段階もの抽象化と具体化が潜んでいる。まず具体的な事物が存在し、それを書き手は観察する。書き手は事物を完全に認識することは不可能だから、認識自体が抽象化を伴う。次に抽象化した認識を言語化していくことになるが、言語化に伴って共通言語(たとえば日本語)に落とし込む必要から、ここでさらに抽象化が行われることになる。語彙は常に経験よりも少ないのだ。

そして書き記された言葉は文章となる。それから今度は読み手が文章を読み、言葉を受け取りながらそのイメージを頭の中に浮かべる。ぼんやりとしたイメージは読み手の経験に引き寄せられて、イメージは輪郭を得ることで具体化する。文章を書くという行為はここまできて、ようやく成立する。ちなみに、ここでいう事物がたとえ想像上のものであっても、このプロセスは変わらない。

文章を書くという行為にはこれだけの抽象化と具体化が伴うのだから、それはもはや事物の本来からは離れてしまったものなる。だからどれだけの表現力を以って文章を書いたとしても、どこかすっきりせずに気持ち悪さがあるのは当然のことなのだ。「言葉は常に虚構である」ことを受け入れ、それに伴う虚しさに納得していくしかないのである。そして虚構であるからこそ、映し出す真実もあるのかもしれないのだ。

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