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あづま路の果てのバスボム(更級ログ12)

困った。何度も挫折した『更級日記』を確かに一周、読み終えたのだが、特に心身に変化がなくて。ふたたび適当なページを開いても意味がわからず、注釈を参照しても、こんな箇所あったっけ…と思う。これでよかったのか? 結局『更級日記』の何が恋しかったの? 

いや、ちょっとわかったのは、私が『更級日記』にひかれていた理由は、
①ひみつの薬師仏に通って願うこと
②竹芝伝説
③物語へのあこがれ
の3つだったなあということだ。

菅原孝標女が念願の『源氏物語』を手に入れて、昼間は部屋に寝そべって誰にもじゃまされずに、夜は灯りのすぐそばで眠くなるまでずっと読みふけっていたのや、「自分もやがては浮舟のように髪はすばらしく長く伸びて、顔立ちも美しくなって、薫大将のような美男子に愛されるのだ」と夢みる気持ちが自分のことのようによくわかって、それが千年前の少女の抱いていた気持ちなのだと思い出しておどろくのは、読む前も読み終えた今も、鮮やかな喜びだ。

自分が浮舟のようになると想像したとき、私なら、身じろぎしたときの衣ずれと、それだけで派手にたちのぼる香のかおりを思いうかべる。今は香の火は消えているのに、濃くかおる。暗闇で胸に手をあてて息をのむ。

でも、この作品はそれだけではない。ひとりの貴族女性の半生の回顧録なのだ。中盤で30代になった菅原さんは、「物語にばかりうつつを抜かしていないで、若いうちから仏教の勤行にはげんでいれば、こんな人生にはならなかったかもしれないのに…」と悔いはじめる。また、宮仕えに出るも、「私にはあそこはあまり向いていなかったみたい」といって月1ほどしか出勤しないライフスタイルをはじめる。今の私には共感もできず、淡々と追うように読んだ後半であった。まいった。

一周目をすべらせたことはあるというだけで、語れることはあまり増えていないような気がして、うじうじとしているところに、脳内情熱大陸の取材がきてしまった。そろそろだと思ったよ、『更級日記』を読みとおすと決めた日、意気込みを語ってしまったのだから。

ーーこれからどこへ行くんですか。
「わかりません。読み終えても思ったほど変化がなくて。これじゃ明日のことすら不安です。とにかく古典を読んでいれば道はひらけますか? それってどこへいく道ですか? もういやになってきましたけど、古典を読むのをやめると、私には何もなくなってしまう気がします。まあ私よりもっと古典を読むひとは山のようにいて、でも私は清少納言がいうみたいになんでもただひとり1の人でないと嫌なんですよ。どうしたらいいんですか。これって若気のいたりの愚かな考えなのですか」

ーーそもそも、清少納言が本当にそういったんですか。あなたは清少納言の何を知っているんですか。『枕草子』読んだことあるんですか。そらんじていえますか。彼女の何を知っているっていうんですか。

世の中は痛いところをついてくる奴ばかりだ。
「くせ毛だったこと、歌が苦手だったこと、意外と引っ込み思案だったこと、ほんの少しでも生きていたくなくなって『もうどこにでも行ってしまいたい』と思っても、まっさらな上等の紙の束を手に入れたら、もう少し生きていてもいいかと思えたこと」

ーーそれだけですか。
「待ってください、『枕草子』を、いちから読んできますから」

そういえば、『更級日記』を読んだ三ヶ月間、もうどこにでも行ってしまいたくなっては、帰ってくるのを繰り返していた。むかしへあこがれて、この目で見たく思うが、そのいっぽう、奇跡的に千年も生き残った文字の羅列から、薄絹のむこうに見える友人たちを見つけて泣きたくて、このからだで読み続けずにはいられない。私はいま、このからだでやる。毎朝こっそり私だけの薬師仏(小窓とノートパソコンです)に会いにゆく。それで何になるか全くわからなくても。

先達たちに教わることは山のようにある。ぜいたくな世になったもので、薄絹ごしに先輩がまっさらな紙をくれる。

ーー『更級日記』はもういいんですか。
「一周読んだじゃないですか」

あーあ、次『更級日記』を読むときは、私も勤行しとけばよかったと後悔しているだろうか。月1出勤しているだろうか。まだ浮舟にあこがれている若造の、一度目の更級ログ、ここで仮にむすびとする。次は『枕草子』を読み、清少納言をたずねてくる。ここに、あこがれのかけらをどかんと1つ置いて、むらさきだちたるバスボムにして、湯船に投げ込んで泡風呂にして入り、あたたまって眠るとしよう。



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