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あてなる人(更級ログ9)

「お暑うございます」師匠がキッチンからのれんを捲って出てきた。
「あれ、今日こられるようになったの。あ、はんこだけ押しにきたのね、今日はなんでお稽古むずかしいのだっけ」
「家具を買いに行かなければならなくて」
「そうなの、気をつけて行ってきてね」先生はにっこりした。口紅がきりっと引いてあるのに気づいた。目をあわせながら、虚言癖の私は腹のなかで、この人にうそをつきたくない、と思った。

本当はあてなる人が来ているので、一緒に出かけたくてお稽古を休んだのだ。あてなる人は窓を開けた助手席に乗っている犬ふうに風を受けて目を細めていた。「これは疲れのとれる酸っぱさだ」そういって残りのレモンケーキをくれた。本当だ、酸味が腑にやわらかに吸収されていき、小躍りしたくなった。あてなる人はいろんなこつを教えてくれる。コウメ大夫みたいな三味線の流れる櫓に登り、湖をながめたりもした。貸し切りだったのでコウメも気にならなかった。

この日の目的は、コンサートへゆくことだった。開演時刻から5分遅れて、歌うひとが出てきた!光を集めて放つ石のちりばめられた星空ふうのドレスをまとい、舞台袖から出てきた人は、何度も聴いて多分私の体の一部となった曲に合わせてゆらゆら揺れながら、胸に手を当てて歌った。こちらの一面の客席はまっくら闇に沈み、滲み、歌う人だけが灯りだった。ばれないように涙を拭かず泣いた。マスクをだめにした。
あ、驚いたのは、ピアノの4つ切りに合わせて背筋をのばしいたずらそうに微笑み、がなり声で歌ったとき。彼女は悪役だったのだ!

She's like spider waiting
For the kill
Look out for Cruella De Vill

クルエラに気をつけろ

記憶が夜ひかるものの混ざる。雑だが、ひとしずくここに置いてみる。洗濯機がとっくに止まっており、朝に出遅れています。あなたにはうそをつきたくない、を忘れたくない。今日も半分くらいしか世に姿をあらわさず、悪役の気持ちで静かに意地悪にゆく。


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(更級ログ)
二十歳くらいになった菅原の娘さん、父がまた常陸に赴任になってしまい寂しい日々を過ごしている。幼いころ東海道をのぼってきた記憶があるので、父が下って行くのも目にみえるようだという。そして、「ようやく物語にうつつを抜かしているのが抜け始め、なぜ今まで物詣でをしなかったのだろうと思う」と、仏教への傾倒期の始まりをむかえる。物語にうつつを抜かすのを「花紅葉の思ひ」と言っているのがおもしろい。


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