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ゆうれい弟子、見参

「はあい」先生がのれんを分けて出てきた。
先生の顔を見てわたしゃ泣いた。
「あらあら、大丈夫」
「なんとか」
月から金、働くと、土曜の朝は起きあがれないことが続き、気づくとほぼ二ヶ月おけいこを休んでいた。
今週は仕事が休みの日が多かったので来られた。

「そうね、ここでは、ゆっくりなさい。ここは休むところ。ゆっくりするところ」
「はい」
「なんだか、あなたはむすめみたいにも見えるのよね。息子のおよめさんとか、いるけれど、また少し違うじゃない」
めっそうもねえ、私は幽霊弟子だ。白い靴下に履き替えながら、無難な返答を探す。
「ご、ご心配をおかけしてばかりで」
「確かにね、どうしたかなあ、とは思っていたけどね。ただの疲れなら、実家のお母さんのところでごろごろしていれば良くなるかなあと思ってたよ」
実家からは昨日戻ってきた。わりと、隠れて泣いていた。
「なんだか休めなくて」
「手伝ってしまうのね」
「気をはってしまうというか」
言葉を選びながら身じたくをした。稽古着を無意識に着られるようになったことに気づいた。来始めて3年がたつ。追い出されず、通っている。いつまでもつことか。

5月になったので、茶室は夏仕様になっている。
先生がこんろで炭をおこす。内部が赤く燃えている。それを決まったやりかたで組み、釜を置くと湯が沸く。
白い芍薬が、「からかね」という材質の花びん(お茶の世界では花いれというらしい)にさしてある。その上に掛け軸がある。読めないのだが、進み出てお辞儀をする。
ようやく参上した。

姉弟子(という呼び名は正しいのだろうか)は、右衛門の君と、少し怖い黒髪の女性がいた。黒髪の君は、兵部の君と呼ぶことにする。

私が動くべき時に、兵部の君が率先して動くので、後ろからお礼を言うと、「はい」と高く短い声で一言答え、目を合わせずに次の仕事に取り掛かる。これがわたしゃ、こわいと感じる。
だが、硬いお菓子を切る時に、「キライな人を思い浮かべて切る!えいえいえい!」と言って包丁を振るっていたので、面白い一面のある人なのだと思う。くるみ菓子が私でないことを祈る。

右衛門の君は着物を着てきており、帯の背中のところに、どこかの山の景色が描かれているのがみえた。大きな筆に単色で、ひとはけ、ふたはけと稜線が描いてあるだけに見えるのだが、現実で遠くの山を見ているのと同じ心地になった。
きれいですね、と言おうか迷ったが、言わなかった。きれい、でいいのかわからなかったし、これは言わないと消えるものだろうか。しかししばらく、言わないでしまっておく流派に属そうと思っている。

さて、午後。もっと遠くを見ることになる。スラムダンクの映画をみた。
顔面でシュートした花道が宮城と一緒に後ろ向きにキュキュキュとコートを走っているのを見てバスケットマンがうらやましくなった。なぜ私は、いやおれは、スポーツをして来なかったのだ!
これからやるか。とりあえずジャージで寝た。

なんだか、最近好きになった歌をとなえてみる。

花かごに月を入て、もらさじこれを、
くもらさじともつが大事な

花籠に月を入れ、漏らさぬように持つのがだいじなのである

室町時代の歌謡集『閑吟集』に出てくる有名な歌だそうで、ネットでも解釈が色々出てくる。秘めた恋心、男女の仲、会っている時間の長さ、など。
私は本当に月だと思ってみる。
お茶の世界では、重いものは軽そうに、軽いものは重そうに持つのが良いとされていて、すごい人はどんなに重い水がめなども、乾いた洗濯物の山を持つように楽々抱えてさっさと歩いている。ある人がある夜、月を花かごの中に入れて軽そうに運んでいてもおかしくないのではないかと思う。

我々は、月の光も、水も、お茶も、ことばも、山なみも、なみなみに満ちたものをたくさん運んでいる。
私は体幹を鍛えて自分の月を運ぶ。持ち腐れのオークリーのジャージで寝て、天気が良ければ朝走る。連休が終わり、仕事が始まる。来週も稽古に行く。



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