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さるすべりの海

「さるすべりが咲きましたよ」
姫の屋敷に常駐する掃除係の女性が、そういって私を呼びにきてくれたことがあった。私は電話で上司に怒られたばかりで、これから上司が屋敷に来るので説明せねばならないということで失意のなかにいたが、呼ばれるままにクーラーのきいた事務室から猛暑の庭にふらふらと出た。祖母くらいの年齢の先輩だが、しゃんと背筋を伸ばし、軽やかな足どりで屋敷に入ってゆく。私も靴をぬいで屋敷にあがる。中は少しひんやりとしている。板の廊下をきしませて歩く。私たちのほかに人はいない。

これは昨年のことで、私はとある姫の屋敷で働いていた。住み込みではなく車通勤で、屋敷から離れた庭のはずれにある事務室で経理を担当した。
姫は今はおらず、屋敷と庭園を開放して観光地となっている。事務員も庭の開花状況を把握する必要があるため、庭師や掃除担当の方が、開花状況を知らせてくれることが多かった。

さるすべりといえば7月から開花するものが多いなか、その庭の樹齢数百年のさるすべりは開花が遅く、今年は咲かないかといっていたところに、10月になって急に、遅れて見にいった祭りみたいにド派手に咲いた。目を細めると滲んだ紅しか見えなくなる。風で波打ち、せまってくる。急に泣きたくなった。私はむかしもこれを見たことがある、と思った。さるすべりの海だ。

「もうすぐ上司が来るんです。破損のことを報告しないと」私が先輩にいうと、先輩は「コーヒーのんで待ってたら」といい、6畳ほどの掃除係休憩室に私をまねきいれた。ここは事務室よりさらにキンキンに冷えている。一般の観光客からは見えない隠し扉をくぐるとある部屋で、入るたび少しわくわくする。
先輩が「ぬれせんも食べな」と差し出すので半泣きでぬれせんと熱いインスタントコーヒーを頂いていると、砂利道を歩く音がして上司がかげろうの中現れた。意を決して灼熱の屋外へと出て、震えながらたどたどしく状況を説明した。怒り呆れる上司の肩にさるすべりの枝が乗っていて、目を細めるとやはり紅の波だった。やはり見たことがあるのだ、去年とかでなく、もっと昔に。
「聞いているのか」長袖シャツで暑そうな上司は声を荒げた。
「申し訳ありません」私は海から戻ってきていった。へたな説明だがどうにか伝わり、許しが出た。ちょっと泣いてから事務室に戻った。

あの屋敷を初めて観光客としてたずねたとき、誰もいない廊下から外をのぞいたとき、庭の緑が陽光を溜めて光っているのがあまりに美しくて、目をそらせなくなったことがあった。屋敷は街中にあり、庭のむこうにはビルや駅や電信柱が乱立しており、普段は車の音もうるさいのだが、この時は庭の葉が擦れる音しか聞こえず、時がとまったようだった。

「今、ここにいる私は、私ではないのではないか。いまは、いまではなくて、この触れられそうな真隣に、過去のだれかのいた時間があるのではないか」

これ以上どうしていいかわからなかったので、庭から視線をひきはがし、順路を進んだ。何度も何度もふりかえった。

数年後、偶然が重なって姫の屋敷に経理として派遣され、3月末まで勤務した。それからの毎日はその日を暮らすのがやっとで、当時のことを思い出すひまもなかった。

今、姫の庭にはさるすべりが溢れるように咲いているだろう。屋敷の廊下の角を曲がると現れるのだ。花の重みで枝がゆれていて、風でもっとゆれる。目を細めるとそれらが滲んで、波みたいにせまってくるだろう。
今日見にいくのもまたいいのかもしれないが、まずは記憶をたどり、今少し視線を落としただけで見えてくる、昨年見たさるすべりの海を見ることにして、部屋にこもって考えている。なぜ、ゆかしいのか。なぜ、あの日目がそらせなくなったのか。過去に戻って見ている。繰り返し目を細める。

夏、暑さでとけて自分のりんかくも物のりんかくも揺らいでいるようなとき、私がそう信じれば、昔とはすぐとなりにある。今咲いている花が、以前咲いたとき。恋しくゆかしい、少し前のむかしを見ている。




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