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幸田露伴の史伝「平将門④(武蔵国の紛争と興世王)」

 貞盛が京上りをした翌天慶二年のことである。武蔵の国に紛擾が生じた。これも当時の地方の綱紀が次第に弛んで来たことを証拠立てるものであるが、それは武蔵権守興世王と安達郡司判官代武芝との紛争がこじれて解決できない事であった。武芝は武蔵国造の子孫で安達郡と埼玉郡は武蔵の国の中で早く開けたところであり、それから次第に人口が増えて奥羽への官道が多摩郡の今の府中が有る所に国庁が出来たのであるが、武芝は旧家であって、累代の恩威を積んでいたから当時は中々勢力が有ったのであろう。そこへ新たに武蔵権守となった興世王と新たに武蔵介となった経基がやって来た。経基は清和源氏の先祖の六孫王その人である。興世王はどのような人か、昔から誰もあまり言わないが、既に王と云われていて、また経基との地位の関係から考えて見ても、天皇系から出て二代目か三代目位の人であろう。高望王が上総介で六孫王が武蔵介と、凡そこのような身分の人々がこのような官に任じられるのは当時の習慣であったから、興世王も思うにソウ云う人と考えて間違いでは有るまい。その頃桓武天皇の御子の萬多親王の御子の正躬王の子孫は住世・基世・助世・尚世などと云う方が居て、また正躬王の御弟には保世・継世・家世など皆世の字が付いた方が沢山居て、また桓武天皇の御子の仲野親王の御子にも茂世・輔世・季世など世の付いた方々が沢山居るところから推測すると、興世王は或いは前掲の二親王の中の何れかの子孫かとも思えるが、系図で確認しなければ推測では力が無い。ただ時代が丁度吊り合うので或いはと思うのである。「日本外史」や「大日本史」で見ると、いきなり「凶険にして乱を好む」とあって、何となく熊坂長範のようにも思えるが、どう云うものであろうか。サテこの興世王と経基とは、共に我の強い烈しい人であったと見え、前例では正任の国司(武蔵守)が着任するまでは任地には入ることが出来なかったのに、強引に任地に入り検視(検注)しようとした。武芝は日頃から公務に精勤していて上からも下からも評判の好い者であったが、前例に無い事だと云って検視を拒否した。ところが、郡司の分際で無礼千万であると云って、武力を用いて強引に入って、武蔵国内を疲弊させ人民を損耗させようとした。武芝が叶わないので逃げて隠れると、武芝の私物まで押収して仕舞った。そこで武芝が返還を迫ると、却って戦の準備をしてガンとして聞かずに暴力を以て誇った。このため国庁の役人等は不治悔過(ふじけご・治めめられないことを謝罪する)の一巻を作って国庁前に遺し、興世王等を非難して国中の郡にその非を明らかにしたから、武蔵一国には大いに不穏の空気が立ち籠めた。また興世王と経基との仲も必ずしも睦まじくは無く、様々な事が隣国の下総に聞こえて来た。将門は武蔵の国の守でも何でも無いが、今は自然と勢威が生じて近辺の大親分のような立場に居たので、武蔵の国が騒がしいと聞くと、武芝は縁者では無いが一ツ助けてやろうと、好意から部下を従えて武蔵にやって来た。武芝は喜んで一部始終を語り、将門と共に府に向かった。興世王と経基は当時は狭服山に住んで居たが、興世王は府(武蔵国庁の所在地)に居たので会って将門は興世王と武芝を和解させ、国庁で和解の杯を各々数杯を傾けて居たが、経基はまだ山北に居た。そのうち武芝の従兵たちが丁度経基の営所を取り囲んだような状態になった。経基は仲の悪い敵のように思って居る武芝の従兵たちが自分の営所を囲んだのを見て、直ちに逃げ去って仕舞って、将門の仲介で武芝と興世王が手を結んで自分を殺そうとしていると誤解して、将門と興世王を大いに恨んで京に駆け上って、将門と興世王が謀叛の企てをしていると太政官に訴えた。六孫王(経基)の言葉なので忽ち信じられて仕舞った。将門が兵を動かして勢威を奮っていることは、既に源護や平貞盛等の訴えで知っているところへ、経基のこの言葉によって、今までの様々な事が急に濃い陰影を成して、新たな非常事態をクッキリと浮かび上がらせた。
 将門の方は仲介の件が無駄になって、面白くもなく石井へ帰って来たが、三月九日の経基の讒訴が将門にとって重大な運命の転換をもたらしているとも知らずに居た。都では以前から坂東が騒がしかったがイヨイヨ謀叛と云うことなので、大変な事だと公卿諸司の議題に上った事であろう。同月二十五日に太政大臣忠平から、中宮少進多治真人助真に真否を確かめるように命じて、教書を持たせて将門を問い詰めた。将門も謀叛とあっては驚いた事であろうが、たとえ驕慢であったにしても実際はまだ謀叛をしていないのであるから。常陸・下総・下毛・武蔵・上毛の五か国から解文(げぶみ・上申書)を取って謀叛の事実が無い事を五月二日に申し出た。他の国は知らないが、常陸からはこのような解文は出しそうに無い事である。少なくとも常陸では将門謀叛の疑いを幸いに、嘘でも将門を悪く云って陥れそうなことである。貞盛の叔母婿である藤原維幾が、将門に好意を持っているハズは無いが、マサカ謀叛をしていない者を罪に陥れることは出来ないと解文を出したものか、ソレトモ将門から攻められるのを恐れて止むを得ず出したものか、一寸理解が出来ない。しかし五か国から解文が出て見れば、差し当っては将門を責める理由も無く、また実際に経基の言葉が将門の謀叛を予言して中っているとしても、興世王と武芝との和解を仲介しに来た者を目前の形勢を誤解して、誤解から興世王と将門を恨んで謀叛を企てていると訴えたのであるから、「虚言を巧みにし」と「将門記」の文にある通りで、将門が罰せられる理由はない。またモシ実際に将門が謀叛をしようとして居たのなら、謀叛と云う無軌道な事をする者が、関係も無い興世王や武芝の所へワザワザ出掛けて、経基に直ぐに見破られるような間抜けな事をするハズもないから、この時はまだ謀叛を謀ったとは云えない。寧ろいろいろと事情が分かって見れば、このように東国に勢威を成した将門の材幹力量を認めて、在野に置かないで、下総守とか鎮守府将軍にして父の後を継がせて、朝廷の為に働かせた方が才能を役立てる道である。そこで或いは将門を薦める者もあり、或いは将門の役立つことが朝廷で論議されたことが有ったかも知れない。「将門記」に「諸国の告状に依り、将門の為に効果有るべきの由が朝廷で論議される」と記されて居るのも、嘘では無く、有りそうなことである。何れにしても経基の訴えの後は、将門は大きな問題となり、注意人物の雄として朝廷に知られるようになったに違いないから、経基の言葉は将門の運命にとっては一大転換点を為しているのである。
 良兼は今はモウ将門に敵わなくなって、この年の六月上旬に病死して居るのであるが、死ぬ前には病床に在って臥しながら剃髪して仏の道に入ったと云うから、これもまた一種可憐な好老爺であったのだろうと思われる。貞盛は良兼に死なれて孤影悄然となって、叔母婿の維幾を頼みに、将門の眼を忍び常陸のアチラコチラに辛い日々を送っていた。良兼が死んでは下総一国は全く将門の勢力下になった。
 興世王は経基が去った後も武蔵に居たが、経基の訴えによって自然と朝廷の御覚えも宜しく無かったことだろう。別に取り調べを受けたと云う記事も見えないが、新たに興世王の上に一官人が武蔵守として任官して来た。それは百済貞連と云う者で、目下の者とさえ仲良く出来なかった興世王だから、どうして目上の者と親しく出来よう。忽ち衝突して仕舞った。ところが貞連は考えがあってか無心でか知らないが、まるで興世王を相手にしないで国庁に席を与えなかった。上には上があり、強い者には強い者が立ちはだかる。興世王もこれには憤然としたが、根が負けず嫌いの恐ろしいところがある人で、それなら貴様も勝手にしろ、俺も勝手にすると云った調子なのだろう、官も任地も有ったものでは無い、ブラリと武蔵を出て下総へ遊びに来て、将門の許に、「居てやるんだゾ位な居候」になった。「王の居候」だからおもしろい。「置候」の将門はガムシャラなばかりの男では無い。幼少から浮世の塩をタント嘗めている苦労人だ。藤原秀郷が尋ねて来た時の様子でも分かるが、「ようございますとも、何時までも遊んでおいでなさい」位の挨拶で快く置いた。誰にでも突っかかる興世王も、大親分然とした将門の太っ腹なところと性に合ったと見えてそのまま遊んで居た。多分二人で地酒を大盃かなんかで飲んで、都出の興世王は、「どうも酒だけは西が好い、いくら馬どころの相馬の酒だって、頭ん中でピンピン跳ねるのはあやまる、将門、オマエの顔は七ツに見えるぜ」、ナンノカンノと管を巻いて居たかどうか知らないが、細くない根性の者同士、喧嘩もしないで暮らして居た。
 大親分も好いが縄張りが広くなれば出入りも多くなる道理で、人に立てられれば人の苦労を背負ってやらなければならない。ここに常陸の国に藤原玄明と云う者があった。元来がこれ一個の無法者で余り性根の良い者では無かった。図太くて、怒りぽくって人を殺すことなど何とも思わないで、公に背くことを心地良い位に思って、ともすれば上に反抗して強がり、下には弱みに付け入って脅かし、租税もくすねれば、押し売りもしようと云う性質で、度胸だけはウムと堪えたところのある始末に負えない奴だった。善悪無差別の悪平等の見地に立っているような奴だが、それでも人の者を奪って我が妻子に呉れてやったり、金持ちの懐中(ふところ)を絞って手下に潤いを付けてやるところが感心な位の者だった。なので、几帳面な常陸介藤原維幾は玄明が横領した官物を弁償させようと度々通知を送ったが、こういう男だから横着に構えて出頭しない。ついには維幾も堪忍しかねて官符を発して召し取るほか無くなり、その手配をした。召し取られては敵わないので急遽妻を連れて、維幾と親しくない将門が隣国に居るのを幸いに、下総の豊田、即ち将門の館に逃げ込んだが、行き掛けの駄賃にしたのか初対面の手土産にしたのか、常陸の行方郡と河内郡の不動倉の干飯などと云う平常では官でも手を付けてはいけない物を掻浚って、常陸の国を逃げ出して来た。勿論これだけのことを遣るには維幾との間に一ト通りでは無いイキサツが有ったからだろうが、何れにしても悪辣な奴だ。維幾は怒って下総の役人にも将門にも通知して、「玄明を捕えて引き渡せ」と申し送った。ところが尋常一様な役人の手におえるような玄明では無い。いつも「逃亡した」と云う返事だけが維幾の許に来た。維幾も終いには業を煮やして、下総に密かに踏み込んで玄明と一ト合戦してでも取り押さえて、叩き切るか生け捕るか仕てやろうと息巻いた。維幾も常陸介だ、息子の為憲もきかん気な若者だ、権力も実力もある男だ、コウなっては玄明は維幾に敵わない。そこで抜け目のない奴だから、将門より他に頼む人は無いと、将門の所へ駈け込んで「どうぞお助け下さい」と頻りに将門を拝み倒した。元来が親分気のある将門が首を垂れ膝を折って頼まれては、余り宜しくないとは思いながらも、「仕方ない、助けてやろう」と云う事になった。居候の興世王は面白がって、「親分、縋って来た者を突き出す訳にもいかねエじゃ有りませんか」位な事を云ったであろう。そこで玄明は気が強くなった。将門は、常陸は元から敵にして来た国であり、また維幾は貞盛の縁者ではあり、その貞盛が維幾の許に匿(かくま)わられて居るのだからウッカリ常陸へは行かれない。興世王をはじめ皆に相談したに違いないが、「ようございます、事によっては戦うだけです」と云う者が多かったのだろう。とうとう天慶二年十一月二十一日の常陸の国へ将門は部下を率いて押し出した。興世王だけでは無いだろう、平常ムダ飯を食っている者が、桃太郎のお供の猿や犬のような顔をして出かけたに違いない。維幾の方でも油断は無い、十分に兵を用意した。将門は、「件(くだん)の玄明が下総に入って居る以上は下総に住まわせて、踏み込んで追補することが無いようにお願いしたい」と申し込んだ。維幾の方にも貞盛や国香の一団が居ただろう。維幾は将門の申し込みに対して、「せっかくの御申し状ではあるが承知出来ない。とやかく仰せられるのであれば、貴公の力と刀を合わせ此方も思うままに致すのみ」と刎ねつけた。ナラバ、ナラバと双方で云って仕舞ったからどうしようも無い。後は斬り合いだ。揉み合い押し合った末は、玄明の手引きもあって将門方が勝利した。「大日本史」や「将門記」に、「将門討って三千人を殺す」とあるのは大げさ過ぎるようだが、敵将の維幾を生け捕りにし、官の印を奪い、財宝を多く奪い、営舎を焼き、凱歌を挙げて、二十九日に豊田郡の鎌輪、即ち今の鎌庭に帰った。勢いとはいえコウなっては遣り過ぎだ。大親分も好いけれど、奉行や代官を相手に武力を振るった上に、向うが承知しないからと云って、此奴メと云うので生け捕りにして、役宅を焼き分捕りをして帰ったのでは、余りにも酷過ぎる。
 玄明の事が起こらない前は官符があるので、維幾が強いか将門が微力であれば、将門は維幾に促されて都へ出て糾問されなければならないハズの身である。それが有ったことも一ツの事情か知らないが、また貞盛の縁者である事も一ツの理由か知らないが、また討ちかかって来たからと云うのも一ツの原因かも知れないが、常陸介を生け捕りにして国庁を荒し、掠奪焼き討ちを敢えてして、成り行きで一国を掌握したことは、将門も図に乗って暴れ過ぎた。裏面の事情はどうであれ表面的には乱賊の行いだ。これでは叛意の有る無しに関わらず、大盗の行為又は暴挙と云うものである。今で云えば県庁を襲撃して、知事を生け捕りにして、国庫に納めるべき財物を掠奪した事になるから、天子の位を侵さないとしても大罪に違いない。将門は玄明や興世王の遣り口を大規模に行ったのである。将門は未だ新皇を僭称した訳では無いが既に官に叛いたのである。純友の暴発も思うにコウ云う調子なのだろう。延喜年間に盗賊に殺された前安芸守伴光行や飛騨守藤原辰忠や上野介藤原厚載や武蔵守高向利春などと云う者も、思うに維幾が生け捕りにされたような状態であったのだろう。孔孟(孔子や孟子)の道が尊ばれたようでも、実は文章や詩賦で流行(はや)っただけで、仏教が尊崇されたようでも実は現世の祈願だけが盛んで、実体に於いては神道や呪術の徒と妥協し、貴族に迎合し、甚だしく平等の思想に欠け、人は恋愛の奴隷、虚妄の従僕となって納まり返り、大臣自身が賭けをして他人の妻を訪れるほど博奕思想が行われ、官吏はただ民に対しての誅求と、上に対する阿諛だけを仕事としている。このような世の中で腕節の強い者の腕が鳴らずに居られようか。この世の中の裏も表も看て取って、構うものか、と云う腹になって居る者は決して少なく無く、悪平等や正邪無視の感情に知らず知らず陥っていた者もアチコチに居ただろう。将門がまるで「水滸伝」の豪傑が危ない目に度々遇って終に官に逆らって威勢を張ったような経路を取ったのも、考えて見れば理解できる。特に永い間続けてきた私闘相手の加担者の維幾が相手になって正面からぶつかったのだから堪らない。コチラが勝たなければアチラが勝ち、アチラが負けなければコチラが負け、下手にまごつけば前の降間木で閉口した時のようになる。玄明をかくまった行き掛かりだけでは無い、自分の首にも縄の一端が掛っているのだから、向うの首にも縄の一端を引っ掛けて、首骨の強さ比べをして、そして敵をノメらせて叩きつけたのだ。常陸や下総と云えば人の気風はドチラも坂東気質で、山城や大和のような柔らかなところは無い。野山に生えている杉の樹や松の樹までが、常陸ツ木・下総ツ木と云えば大工さんが今でも顔をしかめる位で、後年の長脇差の侠客も大利根川沿岸で血の雨を降らせ合っているのだ。神道徳次は小貝川の傍、飯岡の助五郎・笹川の繁蔵・銚子の五郎蔵と数え立てたら指がくたびれる程だ。元来がコウ云う土地なので、源平時分でも徳川時分でも変わりは無いから、平安朝時代でも違ってはいなかったらしい。現に将門の叔父の村岡五郎(平良文)の孫の上総介忠常も、武蔵押領使・日本将軍と威張り出して、長元年間には上総や下総や安房を切り従えて朝廷の兵を相手に二年も戦って、叛臣伝中の人物になっている。こういう土地柄、こういう時勢、こういう思潮、こういう内情、こういう行き掛かり、興世王や玄明のような手下、ついに火事は大きな疾風に煽られて大きな燃え草に甚だしい焔を揚げた。モウいけない。将門は毒酒に酔った。興世王が将門に対して、「一国を取っても罪は許されない、同じ事なら坂東を併せ取って、世の動きを見る他はない」と云い出すと、「いかにもソウだ」と合点して仕舞った。興世王は実に好い居候だ。親分を盛り立てて大きくしようと心掛けたのだ。天井が高くなければ頭を聳えさせるわけには行かない。蔭で親分を悪く云いながら台所で盗み酒をするような居候とは少し違っていた。しかしこの居候のお陰で将門は段々罪を大きくした。興世王の言葉を聞くと、元来が火薬が沢山詰まっている大砲だから口火が点いてはタマラナイ。「ウム、如何にも、いやしくも将門は、天子の末裔高望王三世の子孫である。事を挙げる資格が無いとは云えない。イザ先ず手中に八ケ国を握って万民を治めん」と大きく出た。こう出るだろうと思って、その点で気が合っていた興世王だから、「イヨー親分」と喜んで働き出した。藤原の玄明や文室の好立等がイキリ立った事は云うまでも無い。ソレッと云うので下総の国へ押し出した。馬を御(ぎょ)させては流石に馬所の武士だ。将門が猛威を振るったのは、大きい小さいの差は有るが中国で元が猛威を振るったのと同じく馬を駆使したためである。下総は延喜式で左馬寮御牧貢馬地として、信濃・上野・甲斐・武蔵の下に在るように出ているが、兵部省諸国馬牛牧式を見ると、高津牧や大結牧や本島牧や長洲牧などの沢山の牧があって、兵部省へ貢馬をしたものである。鎌倉時代や足利時代から徳川時代へかけて、地勢上では奥羽と同様に馬産地として鳴っている。特に将門は武人である。このような牧場の多い土地で生長したのであるから、馬の取り扱いにも注意し、騎馬隊の利点を用いることにも怠りは無かったろう。(⑤につづく)

注釈

・熊坂長範:
 義経伝説に登場する平安末期の大盗賊。
・水滸伝:
 中国・明の時代に書かれた長編小説。

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