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幸田露伴の伝記「真西遊記・その十二」

その十二
 
 貞観十九年の春、長安の留守役の房玄齢等は玄奘法師を迎えて、運河から都亭駅に入れ、その日役人等は錦帳や花旗を配って、「明日二十八日に朱雀街に集合して、新しく到着する経や像を弘福寺で迎えるように」と僧や庶民に知らせると、それでなくとも古今に類の無い玄奘法師の噂を聞いた甲は乙に伝え、乙は丙にと伝えあって、庶民の心は何となく浮き立った。いよいよその日の朝ともなると、仏像十数体と経・律・論など凡そ六百五十七部とが二十頭の馬に乗せて到着すると、人々は何れも勇み立って、街を清めて待つ者もあれば、宝幢を立て宝蓋を差しかけて迎える者もあり、僧や尼達は皆服を整え威儀を繕って随行する。朱雀街から弘福寺までの数十里の間というものは内外の官僚や都の人たちで沿道が埋まった。
 玄奘法師は人々の讃嘆の中に弘福寺に到着し、それからいよいよ洛陽宮で帝に見(まみ)えた。太宗は法師の威厳あって猛々しくなく、風采の堂々凛々として応対に賢く、言葉遣いが典雅で風節の貞峻なのを見て、深く法師を敬愛し、天下の兵を洛陽に招集してこれから正に遼浜を征伐する時であるのも忘れたかのように、日の傾くまで語り玉いしが猶も飽きずに法師に対し、「我が軍中に居て随行し玉えば、軍事の指揮で忙しい時であっても師と談論がしたい」とまで云い出す。しかし玄奘は厚遇されても驕るようなことなく、「陛下の御厚情は有り難いことですが、法師の身で軍中に居るのは少しも益が無いだけでなく、兵器の戦闘を観る事を仏法の律では厳しく禁じて居りますれば、願わくは天子の慈愛を以て哀れみて免じ玉え」と申し上げれば、流石に帝も強制できかねツラツラ玄奘を見玉いて、国家の大事をも任せられる人物と思われ、「法師がモシ還俗するのであれば朕は必ず重く用いよう」と頻りに還俗を勧め玉われた。
 もし功名のために行う者であれば、大いに悦んで帝の言葉に従うのであろうが、玄奘の清い胸中には無論自分の栄誉を期するような念(おもい)もないので、「玄奘は幼時より仏門に入り、世俗の事には実に疎くあります。今モシ還俗しても船が水のないところに上がると同じことで益のないことであります。願わくはただ道のために我が身をかけて聊(いささ)かなりとも国家の恩に報いたく思います」と固く辞退して、帝の要請には従わないで長安の弘福寺に帰り、持ち帰った梵本の翻訳しようと計画を立てた。これが玄奘のもとからの志なので、留守役である大司空梁国公の房玄齢に上申してその保護を受けてその年の六月、支那の大小乗の経論に精通することで名高い法師等を弘福寺の霊潤(れいじゅん)や羅漢寺の慧貴(えいき)を筆頭に十二人、文章に勝れた者を普光寺の梄玄(せいげん)を筆頭に九人、字学に精通する大総持寺の玄応(げんのう)や、梵語梵文を担当する大興善寺の玄謨(げんも)?等、その他筆記をする者などを選んで招集して丁卯の日から玄奘自ら経典をとって梵文を説きはじめ、菩薩蔵経・仏地経・顕揚聖教論等四部を訳し終え、二十年春正月からは大乗阿毗達磨雑集論を訳し、二月になってから玄奘が辛苦の末に得た瑜珈師地論を訳すことになって、玄奘は自ら西域記を著わした。
 二十二年の夏五月、瑜珈師地論百巻を訳し終えて上呈すると、玉華宮(長安北方六百里の離宮)に御幸せれていた帝から迎えが来た。帝は再び玄奘に僧衣を脱いで居士に成ることを勧められ玉うが、玄奘は動じることなく五義を述べて謹んで辞退すると、帝はその志の堅さをますます感じ悦び玉いて、予ねて自ら著わすことを許したところの大唐三蔵聖教の序文を自ら作られて下し玉わる。
 帝に従って長安に帰り宮城内に建てられた弘法院に入り、昼は帝に留められて宮中で談論し、夜は弘法院に帰って翻訳し、少しも怠らず、無性菩薩が説いたところの摂大乗論十巻や世親論十巻や縁起証道経などを訳出したので玄奘の名声はいよいよ高く、玄奘のために宮廷は長安京に大慈恩寺と云うものを建て、尚また別に翻経の院を造って玄奘を迎え入れてここに置く。二十三年帝が崩じて皇太子が立って年号が永徽に改まったが、玄奘はそれからは慈恩寺に引き籠って寸時を惜しんで勉励し、真夜中から少し眠り夜明けに起きて、梵本を読んで朝から翻訳の下調べをし、朝から暮れまでその他の時も、暇があれば新経論を講じて聞かせ、また諸州の学僧たちの疑義を正してやりなどして、衆務輻輳するが疲れた様子を人に見せない。
 永徽三年の春三月、玄奘は西域からも持ち帰った経や像がたとえ万代の後になっても散失しないよう、寺門の南に石の五重塔を造ってその中に安置することを思い立ち、届を提出してお伺いを立てたところ、「高さ三十丈の塔を石で築くのは難しいのでた煉瓦を用いて造るべし、費用は大内・東宮・掖庭などの七宮の死亡者の服でもって支払うべし」との勅命を李義府と云う者が伝えたので、そこで煉瓦を用いて大層立派なものを造った。同年の夏五月、インド摩訶菩提寺の智光と慧天と云う者から白氈一対を添えて敬慕の思いを表した手紙が送られてきたが、これ等の者は小乗十八部には通じていたが、大乗を学んでいなかったので偏見を抱いたが、曲女城の大会で玄奘に挫折させられたがその後大いに玄奘を心服し、この手紙を寄こしたものなので、玄奘も彼等の心を諒として大層丁寧な返書を送った。
 同じ六年の夏五月は、必須業務の余暇をみて因明論と云う古い弁論法の書を訳出する。顕慶元年には玄奘の提案で朝廷から、「大慈恩寺の僧玄奘が翻訳した仏典は総べて善美を尽くして、文義も精を極めるものなれば、于志寧・来済・許敬宗・薛元超・李義府・杜正倫等に文字の校閲潤色をさせよ」との勅命が下り、天下の博学能文の名士等を玄奘の助手として務めさせれば、玄奘は感泣し拝礼して感謝を申し上げ、ますます奮い必死になって仕事に励んだが、遂に永年の心身の疲れが一時に起こり、次第に健康を損ない一時は殆んど危険な状態になったが病中でも猶私事を思わず、当時論争する道教の徒と仏徒の関係のこと、俗人と出家は国法上では同じであっていけないこと、の二条を慰問の勅使に託して上奏するなど、あくまで自分が奉じるところの宗旨のために力を尽くせば、帝もまたその心に感動され玉いて、玄奘の言葉通りに一々為させ玉う。
 顕慶五年の春になって、最も有名な彼の大般若経を翻訳しようと取り掛かったが、これは梵本で二十万頌もある極めて広大なものなので、学徒も省略することを願い、法師も皆の意見に従って昔鳩摩羅什(クマラジュ)が翻訳したように、重複するところを削り繫雑すぎるところを除こうとしたが、玄奘は不満に思い遂に奮発して、「たとえ一冊が広大なものに成るとしても、これを読もうとする者が大冊を理由に読まない如きは決してあってはならないこと、私もまた気力が次第に衰え余命は幾らもないが、完成を急いで力を省くなど決してあってはならない、イザ梵本に従って総べて翻訳しよう」と勇を鼓して訳し始めた。玄奘が西域から持ち帰った梵本はすべて三種類あって互いの出入異同を一々読み直し照らし合わせ慎重に翻訳する。この時玄奘は六十五の老齢であったが、「私はこの大経に命を懸ける覚悟で努力するので、諸僧も労力を惜しまないでもらいたい、経部が甚だ大なので常に業の果たせないこと恐れる、イザみちのため勇猛心を振り起し屈することのないように」と、勇気凛々朝から晩まで必死に務め励んで、諸僧を励まし立てて筆を執らせれば、龍朔三年冬十月二十三日に首尾よく完成して、十六会の大説法を集めて出来ている大般若経六百巻と云う今に於いても甚深微妙の法典として伝わるものがこの時成った。
 しかし玄奘はこれ以後、自ら体力の衰耗と死期の近づくのを覚って、「私が玉華宮に居たのは般若を訳すためであったが、今や翻訳の願いを果し幸いにして大事を遂げた上は、私の命もやがて尽きよう、私がモシ死んだ時は極めて質素に山間僻地に安置されたい、不浄の身を宮や寺などには決して近づけることの無いように」と門人等に云えば、門徒等は大いに泣き悲しんで、「法師、何と心細いことを今から云われる、お身体に病の未だないものを不吉なことを云い玉うな」と慰めたが玄奘は、「お前たちには解らないであろうが、私は解っている」と云うだけで相手にしなかったが、麟徳元年の春正月元日に翻経の大徳と玉華寺の僧徒等は大層慇懃に玄奘に大宝積経の翻訳をお願いしたところ、玄奘も衆人の情を察して断わりかねて、梵本を手に取り上げて訳すこと数行で手を止めて、この経の分量は大般若とほとんど変わらない、気力の衰えたこのような私の精魂で能く訳せるとも思えない、早や死期も迫れば仕方ない、今からは仏を礼拝して行道一途に身を尽して寂然として終わろう」と、それからは言葉通りに九日の晩から病気と云うほどではない軽い病を得て、二月四日の夜半になって苦しむことなく永い眠りにつかれた。玄奘の翻訳した合計七十四部千三百三十八巻は今も厳然と存在し、法益を成すこと測り知れず、真(まこと)に釈氏の孝子、仏道の忠臣と云うような尊敬すべき学者であり法師であって、伝えるに値する人と云える。玄奘三蔵が死んだと聞いて帝は声を上げて歎き悲しみ玉われて、「朕は国宝を失った」と歎かれて政務を罷め玉われたと云う。

 仏教徒の慧立と云う者が三蔵玄奘法師を称えて云う、
生霊感絶。 生霊(せいれい)感絶(かんぜつ)し。
大聖遷神。 大聖(だいせい)遷神(せんしん)す。
其能継紹。 其(そ)れ能(よ)く継(つ)ぎ紹(つ)ぐは。
唯乎哲人。 唯(ただ)哲人のみ乎(か)。
馬鳴先唱。 馬鳴(めみょう)先に唱(とな)え。
提婆後申。 提婆(だいば)後(のち)に申(の)ぶ。
如日斯隠。 日の斯(か)くの如く隠れて。
朗月方陳。 朗月(ろうげつ)の方(まさ)に陳(ちん)なる。
穆矣法師。 穆矣(ぼくた)る法師。
諒為貞士。 諒(まこと)に貞士(ていし)為(た)り。
遥秀天人。 遥(はるか)に天人に秀(ひい)で。
不羈塵滓。 塵滓(じんし)に不羈(きせられず)。
究玄之奥。 玄(げん)之(の)奥を究(きわ)め。
究儒之理。 儒(じゅ)之(の)理を究む。
潔若明珠。 潔(きよし)こと明珠(めいしゅ)の若(ごと)く。
芬同蕙芷。 芬(ふん)は蕙芷(けいし)に同じ。
悼経之闕。 経(きょう)之(の)闕(かけ)たるを悼(いた)み。
疑義之錯。 義(ぎ)之(の)錯(さく)を疑(うたが)い。
委命詢求。 命(めい)を委(ゆだ)ねて詢(と)い求む。
凌危踐壑。 危を凌(しの)いで壑(がく)を踐(ふ)む。
恢々器宇。 恢々(かいかい)たる器宇(きう)。
赳々誠恪。 赳々(きゅうきゅう)たる誠恪(せいかく)。
振美西州。 美を西州に振るい。
帰功東閣。 功を東閣に帰す。
属逢有道。 有道(ゆうどう)逢うに属し。
時惟我皇。 時(とき)惟(こ)れ我(わ)が皇(きみ)。
重懸玉鏡。 重ねて玉鏡を懸けて。
再理珠嚢。 再び珠嚢(しゅのう)を理(おさ)む。
三乗既闡。 三乗(さんじょう)既に闡(ひら)け。
十地兼揚。 十地(じゅうち)兼ね揚がる。
俾夫慧日。 夫(か)の慧日(えじつ)を俾(して)。
幽而更光。 幽(ゆう)而(にして)更(また)光あらしむ。
粤余庸眇。 粤(アア)余(われ)庸眇(ようびょう)として。
幸参塵末。 幸(さいわい)に塵末(じんまつ)に参す。
長自蓬門。 長く蓬門(ほうもん)に自(より)。
靡彫靡括。 彫(ちょう)靡(な)く括(かつ)靡(な)し。
高山斯仰。 高山(こうざん)斯(これ)を仰ぎ。
清流是渇。 清流(せいりゅう)是(これ)に渇(かっ)す。
願得攀依。 願うは攀依(はんい)を得(え)て。
比之藤葛。 之(これ)を藤葛(とうかつ)に比す。

(明治二十六年三月)

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