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幸田露伴の伝記「真西遊記・その三」

その三

 秦州の僧で孝達と云う者が都に出て涅槃経を学んでいたが、学業を終え故郷に帰るのを道連れにして秦州に入り一泊したところ、又も運良く蘭州の者が居たのでその者と共に蘭州に着き、凉州の人が役所の馬を送って帰るのに遇い、付き従って凉州に着き一ㇳ月余り留まっていたが、その間に僧侶や土地の人のために涅槃経(ねはんきょう)や摂大乗論等を講義して教えた。凉州は支那の西の果てに在って西方諸国の胡人(西域人)などが通行往来する所なので、玄奘がこの地に来た理由を知った者達がその盛大な講義を見聞して故郷に帰えると珍しい話の種に、「これこれの法師がインドへ法を求めるために凉州に来ている」などと会う人ごとに語れば、胡人の中にも心ある酋長などは、「その志は尊い」として玄奘の来る日を心待ちに待っていた。
 講義も講義もようやく終わったので、何時までもこうして居てはいられないと玄奘は出発しようとしたが、この時は丁度乱の後なので人々の西国への往来は厳しく禁じられていた。都督(ととく・方面軍長官)の李大亮(りだいりょう)は厳しく勅命を堅く守って、西域へ出ようとする者を厳重に警戒していたが、「玄奘と云う法師が一人どのような理由か知らないが、長安から遥々この地に来て猶も西域へ行こうとしている」と報せる者がいたので、ソレとばかり命じて忽ち玄奘を捕らえた。「法師おまえは何をしようと、よりによって長安から西国に行こうとするのか、認めることはできない、国禁であることを知らないのか」と李大亮が問うと、法師は悪びれずに、「別にあやしい目的はありません、ただ仏法の秘儀を探って瑜珈師地論を求めるために、身命を惜しまずに西方への遊学を計画しました、願わくは心中を憐れみ玉いて無事西方へ行かせ玉え」と答えると、利益を得るために単身万里の異境に入る者は或いはあるかも知れないが、利欲を離れ法のため、国禁さえ犯してもと思い立った玄奘の健気さに感嘆し、却って法師を見逃してその望みを叶えさせようと思う心が無いでは無いが、国法であれば仕方なく還ることを勧めたが、玄奘は表面(うわべ)は従うようであったが心の内では屈せずに、退出後には西方を目指して密かに出発した。河西地方(かせいちほう)の仏者の棟梁と尊敬されている慧威(えいい)と云う者が、玄奘のことを聞き知って深く随喜の念を生じて、道整(どうせい)と恵琳(えりん)と云う二人の弟子を密かに従者として送った。玄奘は二人の従者を得て、これからは昼は隠れ潜んで夜は密かに歩み、瓜州と云うところに着いた。
 瓜州の刺史(長官)の独孤達(どくこたつ)と云う者が法師が来たのを見て大いに敬い、歓(よろこ)んで篤くもてなしたので、渡りに舟を得た思いがして西方に行く道を問うと、「これより北に進むこと五十里(中国里、以下同じ)にして瓠盧(ころ)河と云う河があって、その河上は狭いが河下は極めて広く、渦巻いて流れる水は速く底が深くて渡るのは難しい。その上流に玉門関と云う関所があって、そこ以外に道は無く、即ちそこが西境の咽喉元です。サテまた関所の外に出れば五ツの烽火台(のろしだい・要塞)があって、各々間隔が百里あって番将が守って居ますが、この道中は烽台の在るところ以外は水草の無い困難な道です。又それから先はそれにも増して困難な、砂石ばかりのつづく広大な莫賀延磧(ばくがえんせき)と云う砂漠で、即ち伊吾国との国境(くにざかい)です。」と答えるのを聞いて、かねて覚悟はしていたものの今更のように思われて、愁い憂える時も時ここまで乗って来た馬さえ死んで、為すべき術(すべ)も更に無く、どのようにして猶も西方へ進み行こうかと思い悩んで、半月ばかりも思案に暮れていたが、涼州からまた通知があって、「字(あざな・通称)を玄奘と云う僧が密かに西国へ入ろうとしているが、当該の州県は宜しく厳重に捉えるべし」と云って来たのを州の役人の李昌(りしょう)と云う者が、これはキット法師のことであろうと推察して、密かに通知を玄奘に示して、「この玄奘と云うのは貴方のことではありませんか隠さずに真実をお話下さい、私は貴方の味方なのですから、」と真心を面(おもて)にあらわして云って呉れるので、玄奘も仕方なく真実を明かし、「真(まこと)に私は玄奘ですが、求法のために西域に行こうとする真心を憐れに思われて何卒見逃し玉え」と云えば、李昌は感激して目の前で通知を破り、「この通知は破りましたが、永くこの地に止まって居られるのは貴方のために宜しくない、早く、急いで立ち去り玉え」と諫めて呉れる。立ち去りたいのは山々だが、前途の恐ろしさに加えて馬さえ失い茫然として憂えるだけ、従者の道整を先に敦煌(とんこう)に向かわせ、恵琳だけを従えて此処まで来たが、恵琳の遠路に堪えられない様子を察してこれを還らせた。
 所持品を売って馬一頭を辛うじて得たが、牽く者のいないのに困り果てて、留まって居た寺の弥勒菩薩像の前に額(ぬか)づいて、「何卒、馬を牽く者を得させ玉え」と祈ったのも当然すぎて憐れだが、道場の中で礼拝していると忽然と一人の胡人が入って来た。姓氏を問うと姓は石(せき)で字(あざな)は盤陀(ばんだ)と云う骨格逞しい頑丈な男である。「アアこのような者を馬を牽く者に得たい」と思っていると、彼(か)の胡人が玄奘の前に進んで受戒を願ったので五戒を授けて遣ったところ、胡人は喜んで立ち去ったが、暫くすると餅や果物などを持って礼に来た。玄奘が再び注意深く彼の胡人を監察すると、応対ぶりも明らかに賢いので引き止めて、「私はこれから五烽台の辺りを越えて行こうと思う者だが、貴方は私を送って呉れないか」と云えば、胡人は承知して、「法師をお送りして五烽台の先までご案内しましょう」と同意した。寂寞とした無人の水も草も無い所を行く案内者を得て玄奘は大いに喜び勇み、胡人のための着替えの衣と馬を旅荷の中の物などを売って買い、明日一緒に出発しようと約束したが、その日になって玄奘が馬に跨って一群の草むらを分けて進んでゆくと、彼の胡人が一人で来ると思いの外、一人の老いた胡人を連れて、毛色の赤い痩せた老馬に鞭打って追いかけて来た。
 老人などを連れて来たので玄奘が黙然と不満顔で佇んで居ると、若い胡人は口を開き、「この老人は極めて能く西方の道を知っているので連れて来ました。老人は三十余度も伊吾国に往来した者で、西方の道の様子なども聞き玉わればと連れて参りました。この老人の言葉を聞いて改めて考え玉え」と、昨日「五烽台の先までご案内しましょう」と云った語気に似ない怖気づいたような口調で語った。老人が少しにじり出て、西方の危ないこと、道の険悪なことは云う迄もなく、砂漠の風の恐ろしさは言語を絶し、連れが多くてさえ行方知れずになる者もあることなどを説明し、「まして法師は一人であれば無事に砂漠を越えるのは中々もって覚束ない、能く事情を考えて思い止まり玉え、妄りに命を捨て玉うな」、と道理あり気に諫めたが、玄奘の胸の内では既に覚悟のことなので、「翁(おう)の言葉は道理だが、私は長安を出て以来命を惜しむ思いは無い、大法を求めて出た上は中途で死ぬようなことがあっても、インドに着かないうちは、生きて帰ろうとは願わない、諫めは断じて無用、死んでも悔いは無い。我が心は石ではない、転がすことは出来ない、いくら砂漠の道が恐ろしくとも今更元には戻らない。」と烈しく云い切れば、老人は二度とは云わず、「法師が進み玉うなら私がどうして止めましょう、では、この馬に乗って行き玉え、この馬は伊吾へ十五回も行き来したものなので能く道を知って居ります、何かと役に立ちましょう、法師の乗られている馬は若くて遠くに行くには堪え難い」と告げると、玄奘は大いに喜んで馬を交換した。老人が礼拝して去り、日が山の端に傾くと、「歩くには絶好の時だ、イザ出発しよう」と若い胡人を督促して、何処とも知れない道を辿って馬をしきりに進め、真夜中過ぎにようやく遥かに玉門関を望むことが出来た。
 関所を出て、流れに沿って上ること十里ばかりすると、両岸の間隔一丈余りの所に出た。胡人は道端に生えている梧桐(きり)の樹を切り倒しては河に渡し、切り倒しては河に渡して、葉のついたままの細枝やそこらに繁っている草などを根こそぎ布いて、何とか橋のようにして、「イザ駆け抜け玉え」と云う。危うさに身も冷え肝も縮むほどであったが、玄奘が勇気を出して一ト鞭当てると、馬は躍り上がって駆け抜けて、忽ち対岸に渡り着いた。  胡人も同様に馬を躍らせ難無く河を渡り終え互いにホッとし、今宵はこの辺りで休もうと少し進んで適地を選び、とある樹蔭に馬を繫ぎ、着の身着のまま眠りにつこうと、玄奘と胡人は互いに五十歩余り離れて小草の生えた地に坐した。ここはもはや関所の外の人跡絶えたところなので鐘の音も犬の声も聞こえず、冷たい露が衣の袖を濡らすだけで、炯々(けいけい)とした星の光ものすごく、寂しさは喩えようもない。神経を休めようと眼をつむりウツラウツラしていると、怪しい人の足音がするので密かに眼を開けて伺い見ると、星の明かりに微かにキラリ光る刀を引き抜きコチラに向って来るのは、正しく従者の胡人である。サテは胡人め心変わりして、五烽火台の向こうまで私を送り行くのが辛くなって、私をここで殺害し荷物を奪って逃げようとするのか、どうしたものかと驚き恐れて手に汗を握っていると、どうしたことか彼の胡人は思い返したと見えて、元の場所に帰って間もなく寝入ったようである。毒蛇の牙を脱した思いがして玄奘はホッと息をついたが、万一ふたたび襲おうとするかも知れないと、起って小声で普門品(ふもんぼん)を誦して観音菩薩を念じる。夜が明けると玄奘は何事も知らないふりで胡人を呼び起こし、嗽(うがい)手水(ちょうず)をして食事をとり、出発しようとすると胡人は動こうともしないで、「これよりは道もいよいよ危険で、水草の無いところばかりです。ただ五烽火台の下に水はありますが、その他には一滴の水も無いので、何としても夜の闇に乗じて台下の水を盗まなくてはならず、水を盗んでモシ捕まれば生命(いのち)は無論なくなります。なので、危険な目を見るよりも、帰って無事な方がよいでしょう。無駄に生命を失わずに法師も故郷へ帰り玉え」と云えば、玄奘は声を強め、「昨日も云った通り、断じて私は帰らない、早く行け」と厳しく命じて出発したが、胡人は家が恋しいのかしきりに帰ることを云って、僅か五六里ほど行ったところで立ち止まり、「我が家のことが心配で、また国法を破っての旅は今は難しい、何卒お暇を下さい」と云う。こうなっては止めても役には立たないと思い、「ならば、貴方の希望に任せよう」と彼の乗っている馬を彼に与えて、一人は西へ一人は東へと各自の心に従い別れて行く、これより玄奘は連れも無く一人寂しく、見渡す限り茫々とした果ても知れない砂漠の中を、覚束ない思いで辿って行った。(「その四」につづく)

注解
・秦州:中国にかつて存在した州。現在の甘粛省天水市一帯
・蘭州:中国にかつて存在した州。現在の甘粛省蘭州市一帯
・凉州:中国にかつて存在した州。現在の甘粛省寧夏回族自治区一帯
・西蕃諸国:中国辺境の西域にあった諸国
・胡人:当時の西域地方に住んで居た人々
・都督:都督府(各方面軍・ここでは西域方面軍)の長官
・河西地方:黄河の西に位置して中国と西域とを結ぶ地域。
・瓜州:中国にかつて存在した州。現在の甘粛省瓜州県一帯
・刺史:州の長官(瓜州長官)
・瓠盧河:中国西部を流れる内陸河川、玄奘の時代にはその上流に玉門と云う地が在っって、玉門関と云う関所が在った。
・玉門関:中国と西域諸国と結ぶ河西回廊の関所。
・烽火台:辺境諸国の侵入を防ぐための要塞、異変があると烽火を上げて知らせた。
・莫賀延磧:瓜州~伊吾間の砂漠、別名沙河とも呼ばれる。
・伊吾国:ハミ国、現在の新疆ウイグル自治区クムル市一帯。



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