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幸田露伴の伝記「真西遊記・その二」

その二

 玄奘は、その頃名高い諸宗の僧等を訪問仕尽くして、詳しく諸宗の道理を比較研究したが、甲の説くところは乙の説くところと異なり、東の是とするところは西に非とされ、互に矛盾する様子があり、これを一ツ一ツ経文に照らし合わせて見ると、或いは明らかに思いあたる節もあり、或いはソウでも無く、際涯(はて)の知れない大海を望むようで、何処(どこ)に我が身を寄せればよいのか判らない。何とかして仏法の真の道理を明らかに知りたいと、念(おもい)は募るばかりで身をもがき悩んだ。しかし国中の名のある者を残らず訪問し尽して、今さら新たに師を得られる望みのあるハズも無く、結局仏法も本(もと)はインドから此の国へ流伝したものなので、今もインドには学理の深い徳行の秀でた人が居られよう、その人を師として教えを乞うより取るべき道は無い、とは思うものの道遠く、風土も甚だ異なり、簡単に行かれる所ではない。しかしながら今この地に留まって、空しく疑問(うたがい)の霧の中に永く彷徨(さまよう)のも無論望ましくない、どうしたものかと様々に思いをめぐらせた。
 玄奘つくづく又思う、「この身をむやみに惜しんではならない、昔から大丈夫は皆一身を犠牲にして何事をも為したものであるのを、自分一人の身の安楽を願ってよいものか、暑さ寒さもさぞかし違うであろう、万里の旅に身をやつせば、苦しいことも悲しいこともあるのは必定だが、大丈夫が大事を為すにあたっては、辛酸を恐れるような卑劣は念(おもい)が有ってはならない。険路も障害も何あろう、三世の仏も照覧あれ、私玄奘は仏法の真理を尋ねて一切の衆生と共に利益を得るために西方インドに遊学し、第一には疑問(うたがい)のところを全てインドの智者に問いて解決し、第二には名を聞くだけで未だ見ていない瑜珈師地論(ゆかしちろん)の云う意義深淵な論を会得して諸々の疑問を解決し、第三には大恩教主である釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)の霊地を巡拝して、広大な教えを世間に垂れ賜われた御恩に些(いささ)か感謝申し上げ、第四には北の砂漠を渡り、西の葱嶺(そうれい・パミール高原)の艱難恐るべき所を踏破し、自らの道念を飽くまでも堅く鍛えて、勇猛精進の心を伸ばし、行いを修め、誓って中途で意気萎えて怠ける念(おもい)の生じることの無いようにし、第五には幸い無事に西方諸国を経巡(へめぐ)り高徳名師に知遇して、仏法の甚深な妙法の理を会得し、或いは未だこの支那に入っていない仏説の経文や菩薩の論文等を得ることがあれば、帰国の後は一生を力の限り世のために、得たものを分別して疑いを除き、利益あるものを訳して、上は仏恩に報い奉り、中は仏法の光輝を添え、下は衆生の迷いを開いて悟りの道を開こう、この身は惜しまないが尽きる時もある、この心を無駄には出来ない、イザ大願に身を捧げて、私のため、他のため、釈迦文仏のため、僧のため、錫杖を陽関の外に飛ばし、草鞋は遠く鉄門の霜を踏み、雪山(せつざん・ヒマラヤ)の雪をも踏んで、たとえ私の身体が意に添わず中途で倒れて虎狼の牙にかかっても、法のために死ぬのであれば何の悲しむことがあろう、死ぬも生きるも運命である。善事で死ぬなら大丈夫の大快事、死すとも恨みようがない。昔、法顕や智厳等が遠く西方諸国に行ったのも、みな能く法を求めて衆生を導こうとの大願に身を委ねたからであるが、その後(のち)は絶えて、その高跡を追いその清風を慕う者が無いのは真(まこと)に惜しい。彼も僧なら私も僧、大丈夫まさに彼等に続くべし」と、遂に奮い立って同志を募って西方に行くことを計画した。
 同志も次第に集まったので届を提出し、「このたび我等は法のため西方諸国に行こうとする」と詳しく理由を述べて申し出たところ、事例の少ないことなので詔(みことのり)があって許されなかった。思うような勅命が得られなかったので同志の者はみな誓言を反故(ほご)にして、「詔に背くのは恐れ多い、我等は思いを絶った」と勇気忽ち挫けて云い甲斐もなく去ったが、事を成す者は一頓挫に心を変えるようなことのあるハズもなく、玄奘は益々屈することなく、却って一層勇気を増して、頼むに足りない同行が無くとも中々決意は堅い。「大事を成すに他力はいらない私一人で事は足りる、詔があって許されなかったのもコレはそもそも我が心を試す一ツの障害、黄金は猛火に焼かれることを辞さない、正(まさ)に見る厳冬に於ける松柏の青さ、玄奘はここに於いて黄金であり松柏である。であれば許されなくとも驚き迷うことはない、一度決心した上は是非とも万障千難を排して進まなければならない、もし私の願望(のぞみ)みが間違いでなければ仏天も冥加(みょうが・助力)されよう、何を恐れ何に屈するか」と臍(ほぞ)を固めて決心したが、思い余って夢にさえしばしば西土のことを見るようになった。
 際涯(はて)も知れない大海の中に聳えている高山が在って、金銀等の宝で出来ているかのように美しく光り輝くさまは、見る眼にも眩しい心地がするが、玄奘はひとり彼(か)の山に登ろうと思うが、満々とした水は藍より青く、空から吹き下ろす風は烈しく、白波がしきりに立ち狂うその物凄さ云いようもなく、渡しの船も有るように見えないが、彼の山に是非登ろうと意を決して水中に躍り込めば、不思議や不思議、忽ち水中より石の蓮華が湧き出して玄奘の足を支えた。猶も彼の山を目指して進めば、一々水中から足に応じて蓮華が湧き出し、去るに随って消えて行く、しばらくして彼の山の下に思ったよりも易々と辿り着いた。しかし山は険しく、まるで鼓を立てたようで登る道が見つからない、悲しさ云いようもなく、暫しそこに佇んだが、試みに身を躍らすと、身は軽々と虚空に騰がる強風に助けられ、上り昇って宝の山の頂上に着くことが出来た。「アラ嬉しや」と四方を見れば視界が開けて眼を遮るものは無く、浮世の外に出たような気がして躍り上がって喜ぶ途端、忽然として我に還れば、枕頭の灯は細く屋外に鳴る風は寒く、一場の夢ではあったが、遂に貞観三年の秋八月、インドを目指して旅立った。出発の時に玄奘は何才であったか、慧立(えりつ)は二十六才と記(しる)し道宣(どうせん)は二十九才と云うが何れが真(しん)か知ることは出来ない、解らないままに二ツの説を挙げて置く。(「その三」につづく)

注解
・瑜珈師地論:インドの大乗仏教唯識派の学者である無著が、瑜伽(ヨガ)の修行段階を十七段階に分けて詳説したもの。
・陽関:シルクロードの関所、玉門関より南にあるので陽関と云われた。玉門関と併せて二関と呼ばれる。
・鉄門:颯秣建(サマルカンド)から梵衍那(バーミヤン)へ行く間にある峡谷。
・法顕:中国東晋時代の僧、シルクロードを経由してインドに渡り、中国に仏典を持ち帰る。
・智厳:中国・東晋時代の訳経僧、西域を旅する。



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