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幸田露伴の小説「運命2・建文の治世」

運命2


 太祖が崩じたのは閏(うるう)五月である。諸王が入京を止められて不快な思いで帰った後、六月になって戸部侍郎の卓敬(たくけい)と云う者が密疏(みつそ)を上げる。卓敬、字は惟恭(いきょう)、書を読んで十行を一度に読み下すと云われた聡明な人で、天文地理から法律・暦法・軍事・刑事に至るまで究めないこと無く、後(のち)に永楽帝に、「国家が人を用いること三十年、唯一卓敬を得た。」と嘆賞させたほどの英才である。権勢を恐れず正義を通す。嘗(かつ)て制度が未だ備わらない時に、諸王の服装や乗り物が太子のようなのを見て太祖に直言し、「太子と諸王が同じでは上下の差が無く、どうして天下に命令を下せましょうか」と説いて、太祖に「汝(なんじ)の言(げん)は尤もである。」と云わせたことでもその人柄を知ることが出来る。卓敬の密疏は諸王を抑制して禍(わざわい)の根を除こうとするものである。しかし建文帝は卓敬の密疏を受けられただけで用いられなかった。実行されずに事は止む。卓敬の進言は思うに理由なく発せられたものではない。必ず密かに不穏なことを聞くことあってのことである。二十数年前の葉居升の進言はここにおいて的中し、七国の難は今まさに起ころうとする。燕王・周王・齊王・湘王・代王・岷王等は密かに音信を通わせ、密使は互いに動き、穏やかでない流言が朝廷に聞こえてきた。諸王と建文帝との間は、帝はいまだ位に即かない皇太孫の時から諸王に遠慮し、諸王は帝が皇太孫の時から侮って叔父を笠に着た不遜な事が多かった。会葬のための入京を止めたことは遺言である云っても、諸王がその責任を讒言(ざんげん)をした臣下に負わせて、「悪臣を除く」と云って、「香を孝陵に進めて、吾が誠実を行う」と云うようになっては穏やかでない。諸王には合同の勢いがあり、帝は孤立の状態である。アア、諸王も疑い帝も疑う、疑い合えば離れないではいられない。帝も警戒し諸王も警戒する、警戒し合えば離れないではいられない。互いに厭(いと)い離反する。そして、帝のために謀(はか)る者があり、諸王のために謀る者があり、王を皇帝にしようとする者がある。王を皇帝にしようとする者があっては、事はすでに決裂なしには済まないのである。

 帝のために謀る者は誰か、黄子澄であると云い齊泰であると云う。子澄のことは既に記した。齊泰は溧水(りっすい)の人で洪武十七年から次第に世に出る。建文帝が位に即かれると、子澄と共に帝の信頼を得て国政に与かるようになる。諸王の入京会葬を止めた時に諸王は皆思う、「入京会葬を止めたのは、齊泰が太祖の詔を改竄(かいざん)して一族の仲を断とうとするためだ」と。齊泰が諸王から憎まれようになったことを知るべきである。

 諸王のために密かに謀る者は誰か。諸王の頭株は燕王である。その燕王の傅(ふ)に道衍(どうえん)がいる。道衍は坊主であるが悟りを求めるような僧侶ではなく、却って権謀術数を好む策謀に長けた人である。洪武二十八年に初めて諸王が領国に就いた時に、道衍はみずから燕王の傅になろうとして、「大王、私にお仕えすることを許して下されば大王のために白帽を奉(たてまつ)りましょう」と云う。王の上に白を冠ぶせれば皇になる。即ち私が皇帝にして差し上げましょうと云うのである。後継が明白に決まっていて未(いま)だ太祖が存命の時に、このような怪僧が居て燕王のために白帽を奉ろうとし、燕王もまたこのような怪僧を配下に置く。燕王の心中はもとより清くなく、道衍の智謀にも毒があると云える。

 道衍は燕王の傅に就くと袁珙(えんこう)を王に薦めた。袁珙、字を廷玉(ていぎょく)と云う、鄞(きん)の人でこれまた一種異能の人である。以前海外に遊んで人相見の術を別古崖(べつこがい)と云う者から伝授される。天を仰いで輝く日を見て目を眩(くら)ませた後で、赤豆と黒豆を暗い部屋の中で識別し、五色の糸を窓外に懸けて、月夜の中でその色を識別して間違うこと無く、そうした後で人相を見る。その方法は夜中に両側の篝火(かがり(び)を燃やし、人の形状と気色を視て、生年月日を当て、百に一ツの間違いなく、その名は元の末から既に天下に知れ渡っていた。袁珙が道衍を知ったのは道衍が嵩山寺(すうざんじ)に居た時のことである。袁珙は道衍の人相をつくづく観て、「これは何と異相なことよ、目は三角で、形は病虎のようだ、殺を好む性質で、劉秉忠(りゅうへいちゅう)のような者だ」と云う。劉秉忠は内外の学問に通じ、その知識は万物に及ぶ。僧から起ってクビライを助け、全国を平定し元に天下をもたらす。無論それは兵力に拠るのだが、成功が早かったのは劉の企てに因るところが少なくない。劉は実に傑僧である。「道衍は劉秉忠のようだ」と云う。これ正に痒いところに手を差し伸べるようなことで、これより二人は友と成る。道衍が袁珙を燕王に薦めると、王は先ず使者を派遣して袁珙と共に料亭で酒を飲ませておいて、王は衛士の恰好をした九人の中に混じって、自分も衛士の服を着て弓を執って連れ立って店に入って飲む。袁珙は一見すると、走り寄って燕王の前に拝伏し、「殿下、何で粗末な姿でここに参られましたか」と云う。燕王は笑って、「我々は皆護衛の士である」と云うが、珙は頭を振って否定する。ここにおいて王は起って珙を連れて宮中に入り親しく相対する。珙はジッと帝を見ていたが、「殿下は堂々と威厳のある歩き方をされ、また左目上には天下をつかむ骨相があります。後日まことに太平の天子と成られましょう、御年(おんとし)四十にして御鬚が臍まで達しますれば天子の位に登られること疑いありません」と云う。また燕の将校や役人の人相を見させたところ、珙は一人一人指し示して、「貴方は公爵でしょう、貴方は侯爵でしょう、貴方は将軍でしょう」と云う。燕王は話の洩れるのを考慮し、秘密裏に通州に行かせ、密かに舟路を使って邸に入れる。道衍は北平の慶寿寺に居て、珙は燕府に居て、燕王と三人で時々人を遠ざけて語る。その語り合うことの何事であるかは分からない。珙は柳荘居士(りゅうそうこじ)を名乗る、時に年は七十に近い。ソモソモ何を望んで燕王に反乱を起こさせたのか。その子の忠徹が伝えるところの「柳荘相法」は今でも存在して居て、風采や容貌などによってその人の性質を判断する場合の手引きになっている。珙と永楽帝が問答する「永楽百問」の中に帝の鬚のことが記されている。「柳荘相法」三巻は、信じない者は下らない書と看做(みな)すが、中には斥けられないものもあるようだ。忠徹も家伝の人相見の術を伝えて、当時においては信じられている。その著わす「古今識鑑」八巻があって「明志」に採録されている。私は未だ眼にしていないが推測するところ人物や物品の鑑識について説くものであろう。珙も忠徹も「明史方伎伝」に記されている。珙は燕王に見(まみ)えて云う、「御鬚が臍まで達しますれば天子の位に登られましょう」と。燕王は笑って云われる、「余の年はもはや四十になろうとする、どうして鬚がまた伸びようゾ」と。この時道衍は金忠と云う者を薦める。金忠は鄞の人で若くから書を読み易に通じる。死後に占(うらない)の書が編まれて北平で売られ、占は多く的中し、市民はこれを「神技である」としたと伝わる。燕王が金忠に占わせたところ、金忠は「尊くなられること間違いありません」と云う。燕王の決意はようやく固まる。金忠は後に仕えて兵部尚書となり、太子監(たいしかん)国(こく)の輔佐に着任する。「明史」巻百五十に伝があって、これもまた一種異能の人である。

 建文帝の傍(かたわ)らには黄子澄と齊泰がいて諸藩の削奪(さくだっ)なしには済まない。燕王の傍らには道衍と袁珙がいて反乱の密謀は止まない。二者の間はこのようである。風の音や鶴の啼き声にも人々は驚くようになり、剣は光り、灯火は輝き、世は次第に乱れようとする。諸王の不穏な動きが噂となって頻りに朝廷に聞こえてくる。ある日、帝は子澄を召されて、「先生、昔日(せきじつ)の東角門での言(げん)を覚えておられるか」と申される。子澄直ちに答えて、「忘れてはおりません」と云う。東角門での言とは即ち七国の故事を論じた言である。子澄は御前を退出して齊泰と協議する。齊泰が「燕は強大な軍を所有して平素から野望を抱いています。先ずはこれを削るのが良いでしょう」と云うと、子澄は「イヤそうでない、燕は以前から備えを固めているので急には手が付けられない。先に周を取って燕の手足を切り、その後に燕に手を付けよう」と云う。そこで曹国公の李景隆(りけいりゅう)に命じて、兵を集めて急遽河南に行かせ、周王とその世子(せし)と王妃と側女を捕えさせて爵位を削奪し、庶民に落として雲南の地に追放した。周王は燕王の同母の弟であり、帝もかねてから周王を疑い恐れていた。周王もまた野望があり、長史の王翰(おうかん)と云う者がしばしば諫(いさ)めたが聞き入れなかった。しかし周王の二男の汝南王の密告によってこのことは行われた。実に洪武三十一年八月のことで太祖が崩じてまだ間もない時のことである。この年の冬十一月、代王を民に暴虐を加えて苦しませたとして蜀に追放し蜀王の下(もと)で幽閉させた。

 諸藩の削奪が次第に明らかになると、十二月になって前軍都督府断事の高魏(こうぎ)は上書して政治を論じる。高魏は遼州の人、気骨があって文章を能くする。偉大な才能がある訳では無いが性格が実に美しく、母の蕭氏(しょうし)に孝行を尽くすことで称えられて洪武十七年に表彰された。その発言の正しくて飾らないことで太祖に好かれた。これまた一個の好人物である。当時の政治にかかわる者は、黄子澄や齊泰の輩(やから)以下皆が諸藩の削奪を唱(とな)える。ひとり高魏と御史の韓郁(かんいく)はそれと異なる意見を持つ。魏は云う、「太祖は漢・唐・宋三代の治世を参考にし秦の失敗を教訓にして、諸王を分封して四方の守りとされました。しかしこれも昔の制度と比べますと封地が過大で、また諸王も概(おおむ)ね傲り高ぶって勝手気ままをしています。これを削らなければ朝廷の綱紀は成り立たちませんが、しかし削れば一族との仲違いが生じます。賈誼(かぎ)は天下の治安を望むためには諸侯を多く立てて、その力を小さくする他に良い策は無いと云っております。臣が思うに今はよろしくその意見を参考にすべきであります。晁錯の削奪の策を用いてはなりません。主父偃(しゅふえん)の推恩の令に倣(なら)うべきです。西北の諸王の子弟を東南に分封し、東南の諸王の子弟を西北に分封し、その封地を小さくし、その城の数を多くしてその力を分散すれば、各藩の力は削らなくても弱くなるでありましょう。又、出来ますれば、陛下におかれましては益々一族間の礼を盛んにして、四季折々の行事を絶やさず、賢者には詔を下してこれを褒賞し、不法者には初犯は許し、再犯はこれも赦し、三犯改めなければ即ち宗廟に告げて封地を削り、これを廃嫡することにすれば、服従しない者は無いでしょう。」と云えば、帝はこれを聞いて「成程」と頷かれたが、大勢は既に決まっていて削奪の意見の者が多く、高魏の意見が用いられることは無かった。

 建文元年二月、諸王に詔をして文武を節制させ官制を改訂できないようにした。これも諸藩を抑える施策の一ツである。夏四月、西平侯の沐晟(もくせい)が岷王の不正を奏上したので、岷王府の護衛の兵を削り指揮の宗麟を罰し、王を廃して庶人にした。また湘王が法を改竄(かいざん)して滅多やたらと人を殺すので、詔を出してこれを咎(とが)め、兵を派遣して捕らえさせた。湘王は力を誇り気負って云う、「吾は聞く、前政権の大臣は新政権の配下にされると自決すると云う、吾(われ)は高皇帝(太祖)の子であって南面の王である。どうして部下に辱められて生きていることができよう」と。ついに城を閉じて自ら焼死する。齊王もまた人の密告により廃されて庶人にされ、代王もまたついに廃されて庶人にされて同じく幽閉された。

 燕王は初めから天下の注目するところである。威光あり人望あり能力抜群で、やがては天子にと期待する者も有るのである。またひそかに逸材や術士を集め、勇士や強兵を蓄えているのである。互いに疑い互いに危ぶむ。朝廷と燕はついに両立できない状態なのである。そのため三十一年の秋に周王が捕らえられるのを見て、燕王はついに壮士を選んで護衛とし、極めて警戒を厳重にした。しかし齊泰と黄子澄にとって燕王は油断ができない。たまたま北方に外敵の侵攻が有ったのを好機として、防禦の名目で燕の護衛の兵を徴集して城から出させ、その羽翼を奪ってその首を絞めようと、工部侍郎の張昺(ちょうへい)を北平の左布政使とし、謝貴(しゃき)を都指揮使とし、燕王の動静を探らせて、巍国公の輝(き)祖(そ)と曹国公の李景隆とに共同で燕への対策を立てさせる。

 建文元年正月、燕王は年賀の式に長史の葛誠(かつせい)を派遣し、燕府の報告をさせる。このとき葛誠は建文帝の為に具(つぶさ)に燕府の実情を告げる。ここにおいて葛誠を燕に還し内通をさせる。燕王はこれを覚(さと)ってこれに備える。二月になって燕王が朝見の礼のために入朝する。皇道を通って殿上に登り、拝礼しない等の不敬な事があったので、監察御史の曽鳳韶(そほうしょう)が罪を訴えたが、帝は、「近親のことである。問題にすることは無い。」と云われる。戸部侍郎の卓敬(たくけい)は以前上書して、諸藩の兵力を抑制して将来の禍(わざわい)に備えることを云う。今また密奏して、「燕王は知慮に勝れ、またその居る北平の地は地形に勝れ、また兵も馬も精強で、それを力に金(きん)や元(げん)が決起した地でありす。今は燕王を南昌(なんしょう)の地に遷(うつ)されるのが宜しいでしょう、南昌であれば万一変乱が起きても防ぎやすいでありましょう」と云う。それに対して帝は、「燕王は骨肉を分けた近親である。何で謀叛など起こすことがあろう」と云われる。敬は云う、「隋の文帝と揚広は父子ではありませんか」と。敬の言葉、まことにその通り、揚広は子であるのに父を殺す、燕王の傲慢は必ず何事かを引き起こすであろう。敬の言葉は情を欠き、帝の思いは正しいようだが、世相は険悪で人情は毒を含む、悲しいではないか、敬の言葉、却って実に切実である。しかしながら、帝はしばし黙然として云われる、「卿、休息するがよい」と。三月になって燕王は国に帰った。

 都御史の暴昭(ぼうしょう)が燕邸の事を密偵して奏上した。北平の按察使僉事(せんじ)の湯宗(ゆそう)が按察使の陳瑛(ちんえい)が燕に買収されことを告げた。そこで瑛を逮捕し、都督の宗忠に三万の兵を率いさせ、また燕府護衛の精鋭をも、宗忠の指揮下に配属させて国境の防衛を名目に開平に駐屯させ、また都督の耿瓛(こうけん)に命じて兵を山海関に派遣させ、徐凱(じょがい)には兵を臨清に派遣させ、又ひそかに張昺と謝貴に命じて、燕の動静を厳重に監視させる。燕王はこの状況を見て、国に帰ってからは病気と称して外に出ない、ついには重病と偽って面会を避けようとする。しかし水の有るところ湿気の無い訳にはいかない、火の有るところ乾気の無い訳にはいかない。六月になって燕山護衛百戸の倪諒(げいりょう)と云う者が燕府に異変ありと奏上して、燕府の役人である校于諒(こううりょう)や周鐸(しゅうたく)等の密謀について密告する。二人は捕らえられて都(みやこ)に連行され、罪状は明白であるとされて罰せられる。ここに至って事態は燕王に及んで、詔が下されて燕王に事を糺す。燕王は弁解することができないところがあったものか、狂人を装い喚き騒いで走りまわり、市中の民家に入っては酒食を奪い、支離滅裂なこと云っては人を驚かし、或いは地面に寝転がって何時までも覚めない。全く常軌を失ったかのようであった。張昺と謝貴の二人が燕府に病気見舞いに入ると、時はまさに盛夏であるにも関わらず、王は炉を囲んで身を震わせて、「寒きこと甚だしい」と云い、宮中を歩くにも杖をついて行く、なので燕王は本当に狂ってしまったと云う者もいて、朝廷もヤヤこれを信じるようになったが、葛誠が張昺と謝貴に、「燕王の狂態は苦しまぎれのお芝居で、後日の謀叛を有利にするための偽りに過ぎません。もちろん正気です」と密告した。たまたま燕王の護衛百戸の鄧庸(とうよう)と云う者が来て謀叛のことを奏上したので、齊泰がこれを聞いて問いただすと、燕王が将(まさ)に挙兵しようとしている状況を逐一申し述べた。

 待ちに待っていた齊泰は、直ちに官符を発令して使者を派遣し、燕府の役人を逮捕させ、ひそかに張昺と謝貴に燕府に居て内通する長史の葛誠と指揮の盧振に連絡を取らせ、北平都指揮の張信と云う者が燕王に信任されていることを利用して、急遽秘密裏に勅命を出して燕王を捉えさせようとした。張信は勅命を受けてどうしてよいか判断に迷う、情に従えば燕王に背けない勅命を重んずれば私情は挟めない、進退きわまり、アレコレ苦慮し、ついに決心出来かねて苦悶の色は外に現れて、「そんなに溜息をついて、どうしたことか」と母は詰問した。張信がしかたなく事の顛末(てんまつ)を告げると、母は驚いて、「イケナイ、イケナイ、お前の父の興(こう)は常に王気は燕にあると云っていた。王者は死なない、燕王はお前には捕まえられない、燕王にそむいて家を潰してはイケナイ」と云う。張信がいよいよ決めかねて迷っていると、勅使(ちょくし)は益々うながす。張信はついに「ウルサイ」と怒り意を決して燕邸に行く。行くこと三度、その度に燕王は疑って面会しない。今度は婦人用の車に乗って行って面会を求めたところ、ようやく召し入れられた。しかし、燕王は仮病を使って言葉を発しない。張信が、「殿下お戯(たわむ)れ下さるな。まことに事があるのであれば臣にお告げ下さい。モシ情によって語られないのであれば、上命でもあり捕らわれにお就き下さい。モシ意(おもい)があるのであれば臣に遠慮下さるな」と云う。燕王は張信の誠を感じて、席を下りて張信を拝して云う、「我が一家を生かすも殺すも貴方にある」と。張信はつぶさに朝廷が燕の削奪を図る状況を告げる。形勢はここに急転直下し、事態はすでに決裂する。燕王は道衍を召して将(まさ)に大事を挙げようとする。

 天か、時か、燕王の胸中に謀叛の思いは募り、まさに挙兵の心は動こうとし、張玉(ちょうぎょく)や朱能(しゅのう)等の猛将や梟雄(きょうゆう)の眼底には紫電が閃(ひらめ)いて雷火を発しようとする。燕府を挙げて殺気は陰森(いんしん)と立ちこめ、それにまた天が応じたか、時がまた至ったか、突如としてつむじ風と豪雨が大いに起こり、勢い盛んに立ちのぼり、激しく怒る。奔騰狂転する風は沛然(はいぜん)と降り注ぎ猛打乱撃する雨を伴って、天地を震撼させ樹石を揺すり動かす。燕王の宮殿は堅固であるが風雨の力もまた大きく、高閣の瓦は吹き飛ばされて空にひるがえり、バラバラと地に落ちてくだけ散った。挙兵するに当ってこれは何としたことか。さすがの燕王も心中これを嫌って顔色がすぐれない。風の声、雨の声、竹の折れる声、裂ける声、物凄まじい天地を眺めやって、惨憺として言葉もなく、王の左右もまた粛然として言葉がない。その時、道衍少しも驚かず、「アナ、喜ばしの吉兆か」と云う。むろんこの異僧の道衍は、死生禍福の岐路において迷うような未熟者ではない。肝に毛の生えている不敵な逸物である。以前燕王に謀叛を勧めた時、燕王が「建文は天子である、民の心が彼に向かうのをどうする。」と云った時に、昂然として、「臣は天道を知っております。何で民心が問題になりましょう。」と答えたほどの豪傑である。しかし風雨は屋根瓦を落とし、とても吉兆とは思えない。これをアナ喜ばしの吉兆とは余りにも強言(しいごと)に聞こえ、燕王も堪えかねて、「和尚、何を云う、どこに吉兆があるか」と口をきわめて罵る。道衍少しも騒がず、「殿下、お聞きなされた事は御座いませんか、飛竜天に在れば風雨これに従うと申します。瓦が落ちて砕けた時は、これを黄屋(こうおく)に替えるだけです。」と泰然として答えたので、王も直ちに愁いを解いて悦び、諸将も皆どよめき立って勇んだ。彼(か)の国では天子の住居の屋根は黄瓦を用いて葺(ふ)く。「旧瓦には用はない黄瓦に替えるだけだ」と云う道衍の一言は、正にその時の活人剣となって燕王や宮中の士気を一気に高め、直ちに天下を呑もうとする勢いを生じさせる。

 燕王は護衛指揮の張玉や朱能等に命じて、壮士八百人を率いて燕府を護衛させる。戦端は未だ開いていないが軍備はすでに整う。都指揮使の謝貴は七衛所の衛兵と屯田の兵を率いて燕府を囲み、木柵を使って端礼門等の道を塞ぐ。朝廷から燕王の爵位を削る詔(みことのり)と燕府の役人を逮捕する詔が届く。秋七月、布政使の張昺は謝貴と共に、士卒を督促し武装させて燕府を包囲し、朝命によって逮捕されるべき燕府の役人の引き渡しを求める。一言でも逆らえば圧し潰してくれようという勢い。昺貴の軍の殺気はほとばしり、府内に向って矢を放つ者すら出る。燕王は周囲に相談する、「吾が兵は甚だ少なく、彼の軍は甚だ多い。どうしたものか」と。朱能が進み出て、「先ず張昺と謝貴を除けば、他は大したことは有りません」と云う。王は、「ヨシ、では昺と貴を捕らえよう」と云う。壬申(じんしん)の日に王は病気が癒(い)えたと称して、東殿に出て官人の祝賀を受け、人を派遣して昺と貴を招いた。二人は応じない。再び部下を派遣して、逮捕されるべき者を引き渡すと伝える。二人は応じて多くの衛兵を引連れてやって来る。門番はこれを咎めて衛兵の入ることを許さず、昺と貴だけを中に入れる。昺と貴が中に入ると、燕王が杖をついて現れ、坐について酒宴となり、宝盤に瓜を盛って出す。王が、「たまたま新瓜を進上された、卿等とこれを賞味したい。」と自ら一ツの瓜を手にしたが、忽ち顔色を変え罵って云う、「今は世間の小民でさえ、兄弟親族は互いに憐れみ合う。余は天子の親族である、しかるに、朝夕を安心して送ることが出来ない。逮捕の役人がこのように余を捕えよとしていては、天下に何事かが起きようゾ」と、憤然として瓜を投げつければ、護衛の士は皆激怒して先を争い昺と貴を捕え、また予(か)ねてから朝廷に内通する葛誠や盧振等も取り押さえられる。ここに至って王は杖を投げて起ち、「吾がどうして病気であろう、奸臣を欺いただけである」と云い、ついに昺や貴等を斬る。昺と貴の衛士等は二人が何時になっても戻って来ないので、初めは怪訝に思っていたが、後には悟って各々散り去る。燕府を囲んでいた兵も首脳が無くては手足も力が無くなり、兵等もついには勢いを失う。謝貴の部下の都指揮の彭二(ぼうじ)が憤慨して馬を市中に躍らせ、「燕王が謀叛した。我に従って朝廷のために力を尽くす者には褒章があろう。」と大いに呼(よば)わって、兵千余人を率いて端礼門に殺到した。燕王の勇卒の龐来興(ほうらいこう)と丁勝(ていしょう)の二人が彭二を殺すと、それらの兵も散り去った。この勢いに乗れとばかりに、張玉や朱能等は何れも塞(さい)北(ほく)に転戦しては元兵(げんへい)と戦(たたか)った千軍万馬の老練な者等なので、夜陰に乗じて兵を率いて突撃し、世の明けるまでに九門のうち八門を奪い、残り一ツの西直門も言葉巧みに門衛を騙して奪う。北平が今や全く燕王の手に落ちて仕舞ったので、都指揮使の余瑱(よてん)は居庸関(きょようかん)の守りに走り、馬宣(ばせん)は東に向かって薊州に走り、宗忠は関平から兵三万を率いて居庸関に着いたが、敢えて進まず、退いて懐来を確保する。

 煙は盛んに上り、火はついに燃える。剣は抜かれ血はすでに流れる。燕王は堂々と挙兵し出陣した。天子の暦を用いずに敢えて建文の年号を捨てて洪武三十二年と称し、道衍を燕軍の参謀にし、金忠を燕府の紀善に任じて機密に参画させ、張玉と朱能及び丘福を都指揮僉事にし、また張昺の部下で内通者の李友直を布政司参議に任じて令を下して諭して云う、「余は太祖高皇帝の子である。今や朝廷は奸臣のために謀られ害されている。祖訓(そくん)に云う、朝廷に正臣無く奸臣逆臣の在るときは必ず挙兵して討ち取り、君側(くんそく)の悪を征伐せよと。ここにおいて余は、汝等将士を率いてこれを退治せんとす。罪人を捕えた時は周公が成王を輔(すけ)けた法に則(のっと)ろう。汝等能(よ)く余の心を遂行せよ」と。一面においてはこのように将士に命じ、他の一面では帝に上書して云う、「皇祖高皇帝は、百戦して天下を平定し帝業を成して、これを万世に伝えようと諸子を各地に封建され、宗家を強固にするための盤石の計画をなされた。しかるに奸臣の齊泰と黄子澄は悪心を抱き、橚・榑・柏・桂・楩等五人の弟はここ数年の間に削奪される。中でも柏はもっとも憐れで、自ら火を放って焼死する。聖仁が上に在って、何でこれを忍ばれましょう。思うにこれは陛下の御心では無く、奸臣の為すところでありましょう。心未だ足らないと臣を責められるが、臣は燕を守ること二十余年、慎み畏れて小心に法を守り、分(ぶん)に順(したが)っております。誠に君臣の大義と骨肉の間柄を常に思って一層慎んでおります。しかるに奸臣は跋扈(ばっこ)して、理由なく禍(わざわい)を加え、臣の事を奏上する人を捉えては荒縄で縛りムチ打ちなどの拷問を加え、臣が謀叛を企てていると云わせ、ついには宗忠・謝貴・張昺等を燕府の内外に放ち、軍馬は街区を激しく駆け、鐘や太鼓は遠近(おちこち)に鳴り響いて、臣の府を包囲しました。護衛の者が貴と昺を捕えて、初めて奸臣の欺計(ぎけい)を知りました。臣は孝康皇帝(こうこうこうてい・懿文太子)とは同父母の兄弟であります。今陛下に仕えるのは天(太祖)に仕えるようなことであります。例えば大樹を伐(き)るのに先ず枝を切るようなことで、親藩が亡びれば朝廷は孤立し、ひとたび奸臣が謀叛を志せば国は危うくなります。臣が祖訓を見て云えることがあります。朝廷に正臣無く内部に奸臣悪臣在れば、即ち親王は兵を集めて勅命を待ち、天子はひそかに諸王に詔をして鎮圧の兵を指揮し、これを討伐するとあります。臣はつつしみ平伏して勅命をお待ちしております。」と、言葉をかざり情理をそえて奏上した。道衍は若い時から学を好み詩を巧みにして、高啓(こうけい)とも友人として仲が良く、宋濂(そうれん)にも推奨されて、「逃虚子集」十巻を世に出したほどの文才ある者なので、道衍が筆を執ったものか、或いは金忠の輩(やから)が言葉を綴ったものか、何れにしても尤もらしい表現で自分をよく見せ、人を責めて説得力ある文章である。素直にこの文書を読めば燕王に道理があって帝に道理が無く、帝に情が無くて燕王に情があるようで、祖霊も民意も帝を離れて燕王に賛同するように感じる。しかしながら実際は、勝手な理由で張昺と謝貴を殺し、理由もなしに書に年号を記(しる)さない。何を以て法を守ると云うのか。裏庭で軍器をつくり、密室で謀叛を錬る。これでは分に順(したが)っているとは云えない。帝の奸臣を除くと云っても、詔も無いのに兵を起こして威力を誇示し恣(ほしいまま)に地を掠奪する。その言葉は善くてもその行為(おこない)は善くない。

 思い返せば齊泰や黄子澄が諸王を削奪しようとするのも、道理に欠けて情が薄い。諸王を重く封じたのは太祖の考えである。諸王が未だ必ずしも敵対していないのに、先手を打って諸王を削奪しようとするのは、上は太祖の考えを捨て、下は宗室の親睦を損なうものである。父の死後三年の間、父の志(こころざし)を改めなければ孝行だと云うが、太祖が崩じて墓土の乾かないうちに、太祖の考えに背いて諸王を削奪しようとは、これでは道理に欠け、情に於いて薄くはないか。齊や黄の輩の為そうとすることがこのようであれば、燕王等が約束を無視して息巻くのもこれまた削奪のためである。太祖の血をうけて抜群に英傑の気象を持つ燕王が、どうして頭を垂れて濡れ衣(ぎぬ)を我慢できよう。瓜を投げつけ激怒したことも、わざとらしくはあるが全てが演技ということではなく、その中に真情の迫るものがあるのである。つまり両者それぞれに道理があり非理があって闘争が起こり、それぞれに情無く真情があって戦闘が生じる。今になって誰がよくその是非を云えよう。高巍の説は親切誠実で人情に厚く悦ばしいが、時すでに遅く、卓敬の言は明らかではっきりしていて納得できるが、後戻りは出来ない。朝命の酷責と燕王の暴起には、互いに止むを得ないものがあるのである。コレいわゆる運命と云うものか、否か。(③につづく)


注解
・戸部侍郎:中央政府にあって財務を掌る戸部の次官。戸部次官。
・密疏:天子への秘密裏の上申書。
・傅:天子や皇太子の輔佐。
・劉秉忠:中国・元の政治家。十七才で出家し、後に雲中で臨済宗の海雲印簡禅師の知遇を得て、その推挙でクビライに仕え元の為に尽す。
・クビライ:モンゴル帝国の第五代皇帝で、中国・元の初代皇帝。
・太子監国:皇太子が天子の代行をすること。
・世子:後継の子。
・長史:各王府にあって中央との連絡奏上と王府を輔導の任務を担った長史司の長。ここでは周王府の長史。
・前軍都督府断事:中央軍事組織において前軍(福建・湖西・広東方面)の都督府(軍司令部)所属の司法官。
・御史:地方行政の監察を行う監察官。
・秦の失敗:秦は強力な中央集権と強圧政策で国民を苦しめたので烈しい反乱がおこり三代十六年で滅亡した。
・主父偃の推恩の令:前漢の政治家主父偃が、「諸侯の子弟は何十人といるが嫡子以外は領地を得られていない。そこで諸侯の領地を分割して子弟を列侯に封じれば、指定は喜び、諸侯の力も弱まるでしょう」との進言で出された武帝の令。
・工部侍郎:中央政府にあって建設を掌る工部の次官。工部次官。
・北平左布政使:北平地方の行政を担当する北平布政司の長官。北平布政政司長官。
・都指揮使:各地の軍事組織である都指揮使司(都司)の長官。都司長官。
・燕王の入朝:建文帝が制定した「親王朝見の礼」により入朝した諸王が、皇道を通り殿上に上る不敬な振る舞いがあった。(「明通鑑」巻十二)
・監察御史:都察院の巡察官。
・戸部侍郎:前出。
・隋の文帝と揚広のこと:揚広(煬帝)は隋の初代皇帝の文帝の二男であったが、乱脈な兄で皇太子の楊勇に代って皇太子にされたが、死を目前にして文帝が揚広を廃嫡しようとすると文帝を暗殺して二代皇帝に即位した。
・都御史:地方行政を監察する都察院の長官。都察院長官。
・按察使僉事:地方行政の監督を担当する按察司の事務官。按察司事務官。
・按察使:地方行政の監督を担当する按察司の長官。按察司長官。
・都督:方面軍の司令部である都督府の長官。都督府長官。
・燕山護衛百戸:各王府の軍隊である護衛の下部組織。ここでは燕府護衛の百戸隊の長。
・燕府の紀善:燕府長史司で礼法や国家の恩義大節などの輔導を担当する職。
・都指揮僉事:都司の事務官。都司事務官。
・布政司参議:布政司の参議官。布政司参議官。
・祖訓:先祖の訓え。ここでは太祖の遺訓である「皇明祖訓」をいう。
・君側(くんそく)の悪:悪い側近。
・周公が成王を輔けた法に:中国・周の周公は兄の武王が死ぬと、武王の年少の子の成王を輔けて、制度や礼楽を定めて周王朝の基礎を築いた。
・皇祖高皇帝:太祖のこと。
・高啓:中国・明の詩人。字は季廸、号は青邱。
・宋濂:中国・元末明初の政治家・儒学者・文学者。字は景濂。号は潜渓・無相居・竜門子・玄真子。


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