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SEVENTEENという櫂でわたしの舟を漕ぐこと

3月30日。
私は街のど真ん中で泣いていた。この街に唯一残っていた私の心のオアシスが、75年の歴史に幕をおろす前日のことだった。
その映画館で私は最後にチャップリンの黄金狂時代を観た。SEVENTEENのライビュですら満席にはならなかった劇場は、最後になって初めて満席になった光景を見た。上映中はそこかしこから笑い声が聞こえ、"THE END"の後には拍手が巻き起こった。
今ここにいるのか、過去の亡霊になってしまったのか、感情移入か、はたまた自己愛か、わからない私がひたすらに泣いていた。
13人のSEVENTEENを見るために急いで帰路につくこともままならず、ビルの谷間ぽっかりとした芝生に寝転び空を見上げていた。
空は徐々にローズクォーツ&セレニティ色になっていった。

そのまま、そっとTwitterをログアウトした。
13人のSEVENTEENがステージに上がる瞬間を見たい私と、この街に生きる私とは両立ができなかった。
そんな中私がこの目で見ていないものを、共感はもとより他人の目や言葉を介して見聞きするのは耐えられなかった。
いつだってSEVENTEENに対して、自分に対して真面目でありたかった。

3月31日
映画館が閉館するその日、私は映画館でもなくSEVENTEENのライブ配信でもなく、小さな書店にいた。
イ・ラン、スリークという2人の韓国人アーティストによる往復書簡の連載をもとにした本『カッコの多い手紙』が出版され、記念のトークイベントが開催されていた。
イ・ランはかねてより好きなアーティストで、著書もたまに読んでいた。スリークはこの本で初めて知った人だった。
忙しなく過ごしていた3月の中、来たるトークイベントに向けて合間を縫ってちまちまと本を読んでいた。
イ・ランの思考の流れや言葉遣いのリズムを発見の連続のように翻訳者である吉良佳奈江氏の訳を介して受け取り、また初めて知ったスリークの話にはまるで昔からの友達かのように共感する部分が多くあった。
トークイベントで吉良佳奈江氏はこう言った。「イ・ランは日本でも既に有名なんだけど、スリークも日本に紹介したかった。」
この本の出版にあたり翻訳者である吉良佳奈江氏直々に国内の出版社に何社もかけあって断られ続けた末にOKが出たのが、私の住む街にある出版社だったそうだ。そのエピソードに目頭が熱くなった。翻訳者という仕事の果てしなさと何より愛と情熱を知った。
トークイベントは日本語と韓国語を往来しながら行われた。話のトピックはどれも共感をおぼえるようなものばかりで、言葉も文化も似て非なる韓国に住む2人と、状況は違っていてもこんなに分かちあえるような心地になるのが嬉しくて、セーフティスペースのような空間で進んでいく話に涙が出そうだった。

いつしか韓国語の勉強をやめてしまっていた私は、どうしてもこの日2人に韓国語で感謝を伝えたかった。
覚えているフレーズはもうあまりなく、けれども土壇場で覚えた言葉ではなんだか嘘になる気がした。
"오늘 정말 감사합니다" "이란님 노래를 정말  좋아요"
これだけ伝えるとイ・ランは微笑みながら「ありがとう」と言ってくれた。緊張してたどたどしかったし、もっと良い表現もきっとたくさんあった。でもそれは憧れの人に、私が身体をもって得た韓国語で気持ちが伝えられた瞬間だった。
スリークにも"오늘 정말 감사합니다"から話し、本の中で共感した部分をありがたいことに吉良佳奈江氏の通訳を通してお伝えした。
私の目を真っ直ぐに見て話を聞いてくれた表情がずっと忘れられない。
話が、感慨が、互いの心に溶けていく瞬間だった。

なぜ相手の話す言語で伝えたいという思いが芽生えたのだろう。それはなによりSEVENTEENが相手の言語で伝えることを実践し、その姿に救われるように心があたたかくなる瞬間が幾度もあったからだった。
イ・ラン、スリークが日本語を話してくれるのが嬉しかった。スリークが韓国語で「もっと日本語が話せたら」と嘆くのも嬉しかった。
何が嬉しいのだろう、それは「伝える」という意思に対してだった。
イ・ランはじめ多くのインディーズアーティストで初めて韓国の音楽に出会った私は(当時は歌詞に全く興味がなくほとんどの曲の歌詞を知らない)、SEVENTEENによって“音”の先にある言葉・言語というものに巡り合った。
伝えること、伝わることを知った。
言語は手段だった。
それに気づかせてくれた、原点のような大切な体験をした日だった。

より一層言語を学ぶよろこびを知り、また一方で言語や国や属性という括りでは隔てられない個人の存在を強く実感した私は、4月に入り仕事と中国語の勉強に時間を費やし、淡々と一日一日を終えていた。
毎日の勉強の成果が少しずつ少しずつ実り、簡単な日常会話であれば少し話せるくらいになっていた。

小红书で「チャットしよう」と声をかけてくれた二人のCARAT・ジュンペンのうち、一人はチャットを始めてもう三ヶ月になる。大学で日本語を学んでいるその子は「お互いの勉強になるから」と私が送った中国語のメッセージに日本語で返信するというちょっと不思議なやりとりを続けている。お互い最初はたどたどしかった言葉は少しずつ滑らかになっていた。休日もないくらいに毎日遅くまで勉強しているその子とは、最初こそジュンさんの話をしていたもののもはや今ではSEVENTEENの話すらほとんどせずお互いの生活や食・文化の話を続けている。サイゼリヤ(萨莉亚)が上海にもあって日本と同じく学生の味方なこと、ちいかわの人気は爆発的だがその子はそんなに好きではないこと、あいみょんが日本の歌手で一番好きってこと、対して私は中国の現代の文化をほとんど知らないことを思い知った。その子が教えてくれた現代詩人の本を買った。
抖音の語学学習者の間で流行っている日中英ごちゃまぜの文章を読むチャレンジを送り合って、私たちは初めて声を知った。
互いの言葉を学び合う同志のような貴重な存在になっていた。

もう一人は一ヶ月半ほど毎日チャットしている。独家童话のロケ地に住むその子はかなり熱中タイプのジュンペンで、昼夜問わず最新のジュンさんトピックを送り合ってはお互いに喚き、叫び、毎日キャッキャしている。
独家童话の撮影当時はSEVENTEENにまだ出会っていなかったことを後悔していると言っていたけど、私にとって未だ画面の中の世界であるドラマの撮影地にはフィクションではなく当たり前に人々の生活があり、その中にも当たり前にジュンさんのファンがいて偶然にも私と出会ってくれた。その当たり前ではなさを宝のように思う。
日本語を勉強している訳ではなくメッセージはかなり口語体なので最初は翻訳器を通さないと理解するのが難しかった。返信も秒なので拼音入力にまごついていた中国語初心者にはハードだったけれど、会話の中でサラッと故事成語が出てきたり、私の言葉の間違いを息をするように訂正したり、ある意味私を「外国人だから」と特別視しないようなフラットな接し方が心地よくありがたい。

最初は「理解しなければ」と力んでいた中文のSNSに上がっている文字も動画も、気づけば自然と見れるようになっていた。(理解ができているかというと全くそんなことはない)
次第に拼音入力も日本語のフリック入力くらいスラスラとできるようになり、SEVENTEENの情報共有とおしゃべりは中文が中心となった。

私の身体に少しずつ、新たなる言語の萌芽が出てきたような感覚だった。
覚えた単語は新たなカード、覚えた文法でデッキを組んだ。
自信過剰で好奇心旺盛な私は、1月に行った台湾でもまだ全然言葉を知らないし話せないのに店員さんにわざわざ中国語で話しかけ、全く通じずにたくさん恥をかいた。
そうやって間違い続けながらも小红书にWeiboに、組みたてほやほやのデッキで話をしたら、話を返してくれる人がいる。
バッグの中身を紹介すると「私はスーパーのレジ袋を入れている」と自分のバッグ事情も教えてくれる人。
ジュンさんの『僕が死のうと思ったのは』のことを話すと「言葉はわからないけどこの歌が本当に大好き」と言う人。
桜の写真に「私も一回だけ桜を見たことがある。雨に濡れた桜の光景が美しかった」と言う人。
相遇的意义のことを「ついに I don’t understand but I love youではないI understand and I love you になった」と言う人。
ジュンさんの空港の惨状を嘆くと一緒に怒ってくれた人。
言語を学び使うことで、私の感覚や感情が日本語ではなくその言語で伝わっていくこと。その言語を話す人の話がその言語のままに聞けること。
また逆にそれぞれの言語でしか言い表せない感覚があること。それを含め言葉はかたちづくられていること。

人々の、“個”であることがどんどん浮き彫りになっていくようだ。
言語を学ぶ中で至上のよろこびは、話であり人だった。
私は話がしたかった。遠い距離に在るかもしれない、近しいあなたの話が聞きたかった。

「SEVENTEEN」「JUN」という帆を立てて言語の海に飛び込んだ私は、気づけばひとり広い海原へと繰り出していた。
世界はこんなにも広がった。
西洋音楽がもたらした五線譜がそうであるように、あるいはプログラミング“言語”もそうであるように、SEVENTEENもまた一つの言語だった。

SEVENTEENを追いかけていたら日本全国に友達ができた。それだけでこんなに嬉しいことはなかった。さらにメキシコにも友達ができた。
そしてジュンさんをきっかけにのめり込んでいった中国語で、また新たに友達ができた。

ジュンさんがWeibo Liveで、SEVENTEENがきっかけで友達がたくさんできたCARATのことをとても喜んでいた。今年のCARAT BIRTHDAYに贈られたデジタルカードにも「他のCARATと仲良くなれる友情の幸運♡」と記されていた。
それを私信のようにお守りにして、今日も私は中文でたまに間違えながらチャットを続ける。

中国語では推し活のことを“追星”とは言うものの、星を追うにはその先がある。それを教えてくれたのは、手を引っ張ってくれたのは、SEVENTEENでありジュンさんだった。

果てしない海を、最初はSEVENTEENという船に乗って流れのままに漂っていた。今それは櫂になり、私は自分の小舟に乗ってゆっくりと進み始めた。
行けども行けども終わりがない海は、だからこそ航海し続けられるよろこびを、現在地にピンを立てるごとくここに綴ろう。

SEVENTEENを櫂にし、私は私の身体で人生を漕いでいくのだ。

“推しがいる人生”の先、“推しがいる自分の人生を生きる”ことの当たり前のようで当たり前ではない意味をも教えてくれたSEVENTEENへ。
来る4月27日、あなたたちがいるソウルの街で、あなたたちが話す言葉で、13人を我が身で感じ照らすことができる喜びを、CARATという友と共に。

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