すきについて

こんばんは。

今回はタイトルにもある通り、“すきについて”の思考を垂れ流していきたいと思います。

以降、個人的な思想を散りばめた長文が続きます。また、山もなければオチもなく、ただただ述べたいと思った思考を放っていく散文のようなものとなりますので、閲覧の際はご注意ください。

みなさんはすきなものってありますか?すきなひと、すきなもの、すきないろ、すきなおんがく。即座にパッと思いつく方もいればそうではない方もいらっしゃると思います。

かく言う私はどうかと問われると、即座に思いついたのが、友人、お布団、のふたつだけでした。ようく考えはじめると、犬、こたつ、アイス、音楽、本、活字、などなどが思い浮かびました。

本題の“すきについて”ですが、まず初めに、好きってなんだろう?って、ふと思ったんですよね。唐突に何かを思考し始める人間あるある。それで、すきってなんなんですかね。恋愛初心者みたいな質問になってしまいましたが、もし、自分の思うすきは〇〇だと思う!と教えてくださる方がいらっしゃいましたら、自由にコメントして頂けると幸いです。

私が思うすきは、無機物であれ、有機物であれ、対象となる存在に対して愛着を抱くこと、基その経験がすき、だと思いました。

個人的な主観だけを述べて話を進めるのは野暮だと思うので、ここでwebの辞書に掲載されていた本来のすきに関する説明をば。

1 心がひかれること。気に入ること。また、そのさま。「―な人」「―な道に進む」⇔嫌い。

2 片寄ってそのことを好むさま。物好き。また、特に、好色。色好み。「幹事を買って出るなんて、君も―だねえ」「―者」

3 自分の思うままに振る舞うこと。また、そのさま。「―なだけ遊ぶ」「どうとも―にしなさい」
デジタル大辞典(小学館)


上記のように、すきについて辞書で軽く調べただけでも、3つも枝分かれした定義があることに私は正直驚きました。海外の方から日本語って難しいって思われるわけだよなぁ、とも思いつつ、でも、きっと、国を隔てていてもすきという感情は共通できる、分かり合える心の機微のひとつではないのかなとも感じるわけです。

ですが、他人(血筋の通った人間を含む)と自分とで比較しても、全く同じ感情を抱くことってないような気がしてくるんですよね。ヒプノシスマイクというコンテンツで出てきたラップのリリックに「お前の叫びはお前だけのもので弁護はできても代弁はできない」「同じく俺の怒りや痛みは俺だけのもんだ」って言葉があることをふと思い出したのですが、でもそうなると、我々人間って似たような感情を抱くことはあっても一生分かり合えない生き物なのかな?とも考えるわけです。

両極端すぎる思考では?と思いつつも、誰かのことを思いやるという言動ひとつを取り上げたとて、結局、思いやりを齎したいと矛先を向ける対象に対して、彼ら彼女ら、それらの感情や気持ちを汲み取ろうとする努力はこなせても、その人の思ったこと、感じたこと、その過程と結果はその人のみが知る結末というか、その人じゃないと分からないでしょ、って思っちゃうというか。たとえ、対象となったお方がこと細やかに本人の感情やそれに至るまでの過程を教えてくれたとて、最終的に受け取る側の妄想力や推測する力に委ねざるをえないのではないかって。

そうなると、我々人間って意志をもつ個体に対して、これまで自分が生きてきた中で培った経験や記憶に則って、何となくこうなんだろうなという推測や憶測、妄想や偏見を糧に今を生きているんだろうなぁって思考にもなってきて。逆に思いやるってなんだ?の思考になってきちゃったんですよね。はい。ご覧の通り話が脱線しているので、戻そうと思います。

結局、やっぱり好きってなんなの?という振り出しに戻りつつある私ですが、そういえば、すき、を大きく一括りにしようと思えばなんだってすき、に入りそうだけど、人間ってこと細やかに好きを区分けしたがるよなぁとも感じました。

友愛、敬愛、恋愛、すき、だいすき、ちょっとすき、推し、ガチ恋、にわか、エトセトラ…という。人によってそれらの分布や言葉の捉え方、意味のもたせ方も違うとは思いますが、どこからその境界線をひいて、各々の中にすき、を区分けして棲み分けしているんだろうと疑問に思うわけです。

脱線した話の中で、「感情ひとつをとっても、歩み寄るという努力は行えたとて、互い(他人と他人)を分かり合うことはできない。」という結論を叩き出したような気がしたのですが、それが顕著に出るのがガチ恋同士のマウント取り合い合戦のような気がします。

自分以外の誰かが自分が抱いたすきという気持ちを邪魔されたり、侵されるわけでもないだろうに、俺僕私の方が〇〇のことを知っている!だとか、たくさんのお金やチップはたいて、数年以上沢山推しを追っていないとそれはすきだとはいえない!だとか。まるで息を吸うのと同じように、理不尽な諸刃の剣を突き出してはぶん回してきたり、陰でああだのこうだのと非難してくる人間もいますよね。

たとえ、すきを向ける対象が生身の人間且つ同一人物だからといって、他人のすきを否定したり踏みにじって、あたかも自分ばかりが生きている権利を主張してくるのってどうなの?と思うし、どういう価値観をもって今を生きているのだろうという気がしてきますが、話がまたズレましたと。はい。上記のような個人的な意思だけを残してしまうと、ガチ恋にはガチ恋たる思いがあるんだよ!!!!って怒られそうなので、いつかガチ恋についても語りたいと思いますが閑話休題。

超個人的な受け取り方の話になりますが、私は、すきの中にもきらいはでてくるし、すきだからといってその存在全てを全肯定できないときが多々あります。それは、敬愛を抱いた人間に対しても、友人に対しても、恋愛感情を抱いた相手に対しても、です。だけど、確かにすきという感覚や感情は持ち合わせているので、よく分からなくなります。

周りの人たちのすきに触れるとき、すきを聞くとき、少しどきどきして、各々がすきという感情を抱えつつも、その形も気持ちの向け方も重さも、それぞれが似ているようで違うことに気づかされます。上記を千差万別という言葉で片付けられればいいものを、私の悪い癖でもあるのですが、友人たちの抱えるすきの向け方やすきという感情の抱き方、認識の仕方に則らなければいけないような気がしてくるときがあるんですよね。

自分の生きている世界が普通であり、共通認識としてある当たり前がこなせない人間は普通ではないと叫喚するかのような、そんなことする人はいないだろうに、そういう小さな差異であっても、人と違うことがあるということを感じてしまうだけで、なんとなく引け目を感じちゃうという。唐突な自己語りスマソ。

そんなこんなで、なんとなく、SNSというツールを使っている匿名の人間であっても、公ですき!を伝えたり発信したりすることに足が怯える日もあったりなかったりします。そうした日々を生きていると、生きること自体が面倒くさく感じてきてしまうんですよね。なんだかなぁ。

すきってプラスの感情であるはずなのに、無関心よりも絶対に未来を変えることのできる衝動であるはずなのに、マイナスの指針をさすときがあるのはなんでなんだろう。答えはまだ見つからず終いですが、息を下ろした日々をもっと積み重ねたら何となく分かるようになるのかなぁ。 浅葱を

ということで、グダってしまいましたが、今回はここら辺で〆させていただきます。おわり!

閲覧ありがとうございました。

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