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まよなかのべんとうや

「お先に失礼します。」
 疲れきった顔で井上知之は職場の先輩達に向かって頭を下げた。厚手のコートを着て職場を出る。腕時計を見るともう深夜十二時をまわっている。長い長い一年が終わる、今日は仕事納めだ。大学を卒業したのが一年前だとは信じられないほどの体感時間だった。思わず深いため息をつく。社会人一年目で既に疲れきってしまった。あと40年働き続けるのだと思うと、ぞっとする。
 終電で帰る途中、Twitterを覗くと大学の友人が華金を謳歌する写真をあげている。向かいのガラスに映る自分の表情と友人の表情との違いに気が滅入る。年末年始の休みに何をするのかを考えながら、ぼーっとする。大学の長期休みには東南アジアに旅行に行っていたが、今年は考える余裕さえなかった。
 最寄り駅に着くと、夜ご飯を買うために全国チェーンの弁当屋に寄る。
「いらっしゃいませ。」
 夜中にも関わらず張りのある声で店員が挨拶をした。
「んー、親子丼大盛で。」
 知之はぼそぼそとした声で注文した。
「親子丼大盛をお一つですね、550円になります。只今込み合っていますので、少々お待ち下さい。」
 お金を支払うと、知之は近くの席に座った。店内を見渡すと先に三人が待っていた。一人は40代そこらのサラリーマン風の男性、一人は知之と同年代に見える新卒風OL、一人は金髪に紫色のスーツを着た若い男性。知之はふと、なぜ彼らが真夜中に弁当屋にいるのか気になった。出来れば自分より酷い理由、酷い状態であって欲しかった。自分より下がいれば、自分が少しはマシだと思える。弁当が出来るまで時間がかかるとのことなので、右隣に座るサラリーマン風の男性に声をかけた。
「あのー、ここの弁当屋旨いですよね。僕もよく利用するんです。」
 出来るだけ不審者に見られないように明るい声を出した。


「ええ、そうですね。」
 男性は驚いたように知之の顔を見て、絞り出すように返事をする。
「突然話しかけてすみません。弁当が出来るまで時間があるので、話でもと思いまして。」
「いえいえ、大丈夫ですよ。私もよく利用してます。ここのカツ丼が美味しいんですよ。」
「衣がサクサクして美味しいですよね。いつもこんな時間に利用するんですか?」
「今日は仕事でたまたま遅くなりました。家に帰ってもご飯がないので。」
 サラリーマン風の男性は苦笑いを浮かべた。
「独り暮らしなんですか?」
「家族四人で暮らしてますが、妻がご飯をつくってくれなくなりまして。」
 知之は当初の目的を達成できそうな会話の糸口を見つけた。
「何かあったんですか?」
 知之は善人の仮面を被り、続けて質問した。
「妻が言うには私は仕事ばかりで家族を省みない夫だそうで……。」
「それは辛いですね……。」
 サラリーマン風の男性は徐々に熱が入ってきた。
「私は家族のために身を粉にして朝から晩まで働いているというのになんでこんな扱いなんだ。」
 声が大きくなり、サラリーマン風の男性は他の客から視線を集めてしまい、ばつの悪そうな顔をした。知之は面を食らったが、家族のために働いているという言葉が胸に刺さった。一日中仕事し、家族に辛い扱いをされながらも、この人は家族のために働いているんだ。知之は自分が何のために働いているのかと考えてしまった。この疑問は最近知之が考え続けてきたことだった。まだ答えは出ていない。
「仕事辞めるとか、離婚とか考えたことないんですか?」
「何度もありますが、やはり私にとっては家族が大切なんです。」
 サラリーマン風の男性は誇らしげに言った。
「家族のためにというのは凄いなと単純に思います。自分で稼いだ金は自分で使いたいですしね。」
「ははっ、私のお小遣いは月に二万円ですよ。」
 力なく笑ってはいたが、どこか幸せそうだった。
そんなサラリーマン風の男性に知之は徐々に心を開いてきた。
「私は最近何のために働いているのか分からなくなってきました。仕事ばかりで時間はとれないし、入りたくて入った会社でもなくて。」
 知之はぼやっと頭で考えていたことが、自然と言葉になって出てきた。言葉にして初めて自分がそう思っていたことに気づかされた。
「私だって君のような若い頃はそんなもんだったよ。20代の終わりに今の妻と出会ってから人生が変わったよ。」
サラリーマン風の男性は遠い目をしながら話していた。
「羨ましいです。どう変わったんですか?」
「妻と土曜日にデートがあれば、平日はなんとか乗り切れたよ。あと何日終われば楽しみがあると言い聞かせてね。上司に怒られた日の夜でも、デートプランを考えながら妄想を膨らませていれば怒られたことなんて忘れてしまったよ。」
「なんかいいですね、そういうのって。羨ましいです。」
 知之は素直な気持ちを話した。
「悪いね、私ばかりベラベラと話してしまって。」
「いえ、なんというか参考になりました。でも私は毎日遅くまで働いて、休みの日も働いて……。もう仕事辞めて実家に帰るのもアリかなって思っています。」
「気持ちは痛いほど分かるよ。いつか君にも働く理由がきっと見つかるよ。こんな私にだって見つかったんだから。」
 知之は一度整理して考えてみようかなと思った。夢や目標を追いかける訳ではなく、ただ毎日を消化するような過ごし方に嫌気がさしていた。これでは空っぽだ。
「五番でお待ちのお客様、大変お待たせいたしました。」
店員のよく通る声が店内に響き渡った。
「私だ。」
 サラリーマン風の男性は立ち上がり、弁当を受け取った。
「いろいろ話せて楽しかったよ、よいお年を。」
 サラリーマン風の男性はそう言い、弁当屋を後にした。
 知之は名前も知らない人とまさかこんな話をするとは思ってもみなかった。荒んでいた心が少しはほぐされた気がした。あの人のようになりたいとは思わないが、芯のある人だなとは思った。二十年後に自分がどうなっているのか全く想像ができなかった。自分が働く意味ってなんだろう。生きていくだけならバイトで何とかなるだろうし、それこそこの弁当屋でバイトしようかな。メニューも覚えてる。就活したときは、周りが就活してるから何となくしていただけで、この業界で働きたいという目標はなかった。知之は思わぬ形で自分を見つめ直す機会を得た。せっかくならもう一人話しかけてみるか。さっきから紫色のスーツを着た男性がこっちを見ていた。気になっていたのなら話してくれるかもしれない。
「あの、もし良ければ弁当が出来るまで話しませんか?」
「自分この後仕事なんで、少しなら大丈夫ですよ。」
紫のスーツの男性は少し面倒くさそうに答えた。
「えっ、こんな時間からですか?どんなお仕事何ですか?」
 知之は法律に違反する仕事ではなければいいなと思いながら勇気を入れて聞いた。なんせ金髪に紫色のスーツ姿だ。
「自分は近くの歓楽街でホストやってます。」
「ホストですか、ホストの方と初めて話しました。今日は何時まで仕事なんですか?」
「朝五時からお昼までですね。」
「その時間お店開いてるんですね、深夜三時くらいまでかと思ってました。」
「一般の方はそう思ってる人多いですね。でも風営法でその時間はダメらしいです。」
「知らなかったです。ホストの仕事は大変ですか?」
「まあ酒飲むのと声出すんで肉体的にはきますね。」
「そうなんですね、でも女性にモテるの羨ましいです。」
 知之は社会人になってすぐ、仕事の忙しさから彼女と次第に疎遠になり、最後には振られてしまった。大学4回生と社会人一年目では時間の感覚が大きく異なっていた。別れた後、彼女はすぐに他の男と付き合ったと風の噂に聞いた。相手は同級生だそうだ。彼女から『知之は変わった。今の知之は私を大切にしてくれないし、魅力を感じなくなった』と言われ振られてしまった。過去の嫌なことを思い出してしまい、苦虫を潰したような顔になっていた。
「仕事なんでね、必死ですよ。女性にウケる話題から髪型、服装、話し方、振る舞い、全て研究中です。」
「プロですね。一つでもいいんでテクニック教えて貰えないですかね。恋愛ベタな人でも出来そうな簡単なもの
とか。」
 知之はサラリーマン風の男性との話もあり、無性に彼女が欲しくなっていた。そうすれば今の無味乾燥な毎日から抜け出せるような気がしていた。
「んー、簡単かつ効果的なテクが1つあります。」
 紫色のスーツを着た男性は得意気に話す。
「それは単純接触効果と言われる心理学を用いたもので、直接会ったり、電話やメールしたりを繰り返すことで好感を持ち易くなります。そこから恋愛に持ち込むのがいいと思いますよ。」
「さすがプロですね。勉強になります。今好きな人はいないんですが、好きな人が出来たら活用したいと思います。」
「喜んでもらえて良かったです。」
「私は毎日多くのお客様にこれをしてます。これが結構大変で……。直ぐにスマホの充電がなくなるくらい電話やラインに追われてます。」
 紫色のスーツを着た男性は苦笑いをしながらも、声は嬉しそうだ。仕事に誇りを持っているんだろう。
「ホストを始めたのは何でなんですか?」
「金と女と酒です。」
「男の欲望が詰まってますね。」
「というのは冗談で、お金を貯めて地元の愛知でバーを開業したいんです。」
「夢がありますね。バーですか、似合いそうです。」
「開業資金に少なくとも600万は欲しくて、内装にもこだわりたいので、頑張って貯めてます。ホストになりたてなので全然稼げてないですが、早くお客様掴まえて稼げるようになりたいです。もうお店の名前も考えていて、Bar peaceにしようと思います。」
 紫のスーツの着た男性は、はっとした表情の浮かべた。
「すみません、この話をすると止まらなくて。」
 ばつの悪そうな顔をして、頭を下げる。
「何というか、凄く生き生きと話されていて聞いてるこっちまで楽しくなりました。」
「そう言って頂けると助かります。」
「私はあまりバーに言った経験がないんですけど、どんなバーにするんですか?」
「美味しいお酒が飲めて、心落ち着く場所にしたいです。今日一日嫌なことがあった人でも、自分のバーから出る時にはきっと良いことがあるさと前に向いて歩いていけるような、そんな場所にしたいです。そんな願いを込めて安らぎという意味のpeaceを店名にしました。」
「何かいいですね。私も是非行ってみたいです。」
「ありがとうございます。その……もしご迷惑でなければお渡ししたいものがありまして、将来バーを開業した時に使える割引券です。」
 Bar peaceと書かれた名刺には、松井智という名前と、初回利用半額とあった。もちろんお店の住所は書かれていない。変わった名刺だ。知之は、バーの夢への想いを強く感じた。
「凄く嬉しいです。いつか開店した時には伺います。」
 知之は名刺を受け取り、財布にしまった。お店が出来たら連絡したいと言われたので躊躇う気持ちはあったが、連絡先を交換した。
「松井さん、私にも叶えたい夢がありまして……。」
 知之は自然と言葉が口から漏れ出てきた。自分の夢はまだ誰にも話したことがないのに、今あったばかりの人に話すことになるとは思ってもみなかった。今まで話さなかったのは、不可能だと笑われるかもしれないとか、才能がないとか言われるのが怖くてしかたなかったし、何故か恥ずかしかった。でも知之は松井さんの真っ直ぐな想いに知らないうちに感化されていた。
「えっ、教えて下さいよ。知りたいです。」
 松井さんは真っ直ぐな瞳でそう言った。
「笑わないでくださいね。実はシンガーソングライターになりたいんです。いつか自分の曲で武道館で歌いたいです。」
 知之は松井さんなら大丈夫だと信じて、意を決して言い切った。
「笑う訳ないじゃないですか。良い夢ですよ。もう曲とか作っているんですか?」
 知之は、松井さんが受け止めてくれたことが嬉しかった。夢を話せることが嬉しかった。
「一曲だけ作りました。」
「凄いじゃないですか、どんな歌なんですか?」
 知之は色々と聞いてくれるのが嬉しくて、気づけば気持ちよく話していた。
「失恋ソングです。」
「歌詞はどんな内容なんですか?」
「仕事の忙しさから彼女をほったらかしにしていて、振られたみじめな男の歌です。失ったときに初めて相手の存在の大切さ、優しさ、思いやりに気付き、どうしてもっと大切にしなかったのかと後悔をするという、ありふれた歌詞ですよ。」
 知之は自分の作った曲に自信がなかった。曲もどこかで聞いたことがあるようなメロディで特徴的ではないし、歌詞だってやりつくされたジャンルだと思っている。才能がないと自分で思ってしまっているからこそ、夢に自信がなかった。
「そんなことないですよ。自分で魂込めて作ったのなら唯一無二の曲のはずです。私もオリジナルカクテルを作っていますが、そう思って作ってます。じゃないとお客様に失礼です。」
「ありがとうございます。仰る通りです。あの良ければ私の歌を聞いてもらえないですか?実はYouTubeでチャンネルを持ってまして、ゆきともという名前で活動してます。」
 せっかく作った初めての曲を誰かに聴いてもらうために、夢を叶えるために作ったチャンネルだ。いや本当の事を言うと、別れた彼女が偶然にでも聴いてくれて自分の元に戻ってきてほしいという下心があった。動画では顔は隠しているけど、名前は本名を少し変えただけだし、声で分かってくれると信じていた。やはり彼女から連絡が来ることはなかった。アップしてから約半年経ったが再生回数は5回だけでコメントも何もつかなかった。知之はチャンネルのことを知り合いに教えたことがなかったが、今初めて教えた。
「もちろん聴きます。今日の仕事終わりに家で聴きますね。」
 松井さんは屈託のない顔で答えてくれた。
「ありがとうございます。まだ一曲しか載せていないんですけど、また曲出来たら載せるので聴いてください。」
 知之はここ数ヵ月曲作りをしていなかったが、松井さんと話してもう一度曲を作りたいと思った。
「六番でお待ちのお客様。大変お待たせいたしました。」
 店員の声が聞こえた。
「私ですね。お話ありがとうございました。曲聴くの楽しみにしてますね。ではお先です。」
 松井さんは弁当を受け取り、私に向かってお辞儀をして店を出ていった。知之は松井さんと話して、もう一度夢と向き合おうと心に誓った。幸い年始の仕事始めまで時間がある。まずは曲作りから始めよう。
 気づけば店内は自分とOLの二人になっていた。弁当を注文してから十五分くらい経っていた。お腹は極限まで減っていた。OLの方は恐らく自分と同じくらいの年齢に見えた。紺色のスーツを着ており、ショートカットがよく似合ってる。しっかりとしていて仕事が出来そうな雰囲気で、正直なところ可愛い。話しかけてお近づきになりたいものだ。
「あの、お弁当出来るまで少しお話ししませんか?」
 知之は今までナンパしたことがなく、あんなこと出来るのは鉄の心臓を持つ別人種だけだと思ったいたが、今日は気負いもなく話しかけられた。先程まで初対面の二人と話していたこともあるし、仕事納めからくる何かしらの高揚感かもしれない。
「私ですか?」
 新卒風OLはスマホから顔をあげてこちらも見た。清楚な外見とは異なる鼻にかかった甘い声で、知之は心拍数があがった。
「はい、まだ時間もありそうですし、それにさっきからお腹が減ってしまって少しでも気を紛れさせたくて。」
 知之は目を細めて笑った。
「お腹減りましたね。私もペコペコです。」
 新卒風OLは口角をあげて、笑顔で答えてくれた。
「お名前伺ってもよろしいですか?」
「山本薫です。お兄さんのお名前は?」
「井上知之です。山本さんはよくここを利用されるんですか?」
「週に二、三回は利用してます。すっかり常連っぽくなってきて、店員さんの顔も覚えちゃって。」
山本さんは微笑んだ。思わず知之は見とれてしまった。
「駅近で通いやすいですよね。今日は何でこんな遅いんですか?」
「普段は19時くらいにお弁当買ってるんです。でも今日は仕事の得意先と忘年会で、お酌や何やらでほとんどご飯食べれなかったんです。こんな時間に食べたら太るかなと思いながらも食欲に負けました。」
 山本さんは分かりやすくがっくりと頭を下げた。意外とお茶目な一面もありそうだなと知之は思った。
「それはそれは、お疲れさまでした。」
 知之はゆっくりと頭を下げながら答えた。
「山本さん細いんで大丈夫ですよ。」
「いえいえ余分なお肉がついてて困ってます。井上さんは何でこんな時間なんですか?」
 狭い店内ならさっきのサラリーマン風の男性との会話が聞こえていてもおかしくないのだが、イヤホンでもしていたのかな?
「今日は仕事納めなんですけど、なかなか終わらなくて残業してました。」
「それはそれはお疲れさまでした。」
 山本さんは、さっきの自分の言葉としぐさを引用して答えた。二人は目を合わせて声を出して笑った。
「ありがとうございます。失礼ですけど、山本さんはおいくつなんですか?私と同じくらいかなと思うんですけど。」
 知之はもっと山本さんのことを知りたくて、思いきって聞いた。今まで同い年としか付き合ったことがないので、そうだといいなと思った。
「3月で25歳になります。今は社会人三年目です。同じくらいでしたか?」
 知之は少し落胆したが、山本さんとはあまり気を使わず話せそうな気がした。
「山本さんの方が先輩でした。私は二月で23歳になります。社会人一年目です。」
「新人君か。」
 知之は急に先輩風吹かせてきたことが面白かった。
「はい。ぺーぺーです。仕事は初めてのことばかりで大変です。」
「そうですよね、私も特に一年目は大変でした。といっても今でもミスばかりですけど。」
 山本さんは笑って答えた。自分のミスのことを笑って話す山本さんは大人だなと知之は感じた。
「山本さんはお仕事好きですか?」
「嫌いではないですけど、好きではないですね。生活のために働いているという感じですかね。」
「そうですよね、なかなか面白い仕事ってないですよね
。お休みの日はどうやってリフレッシュしてるんですか?」
「絵を描くのが好きで、仕事終わりとかお休みの日はそう過ごしてます。」
「凄いですね、どんな絵を描くんですか?」
「風景とか建物とか、あまり描かないですけど人物も描くことはありますね。」
 山本さんは、ワントーンあがった声で嬉しそうに話した。
「えっ、見てみたいです。今見れたりしますか?」
「Twitterにあげてるので良ければ……。」
 山本さんは絵描き用のアカウントを教えてくれた。
「一番いいねが貰えたのは、このサグラダ・ファミリアの絵です。スペインに旅行したときに訪れたんですけど、美しさに感動して描きました。」
 大樹のような柱が左右に並んでおり、正面の大きなステンドグラスから色とりどりの柔らかい光が差し込んでいる。その光の中で一人の少女が祈りを捧げている。知之はあまりの出来映えに驚いて声が一瞬出なかった。
「山本さん、めちゃくちゃ上手いじゃないですか!この絵好きです!」
 知之は、言葉では上手く表現出来ないほど凄いと思った。自分の乏しいボキャブラリーを恨んだ。
「ありがとうございます。でもまだまだ技術が足りないです。サグラダ・ファミリアの美しさと、自分の感動を表現出来ないのがもどかしいです。」
「私は絵のことは分からないですけど、プロレベルだと思いました。」
「ありがとうございます。」
 山本さんは笑顔で答えた。
「アカウント、フォローしてもいいですか?」
「嬉しいです。ありがとうございます。」
「応援します。また山本さんが絵を載せるの楽しみにしてますね。」
 山本さんは頑張りますと両手でガッツポーズをした。
「井上さんは、お休みの日は何してることが多いですか?」
「土曜日は昼まで寝たり、ダラダラしてますね。でも歌が好きなのでカラオケいったりギターいじったり、ライブ行ったりしてますね。」
「ギター弾けるの凄いですね。」
「まあ……。」
 知之は自分の夢のことを話そうか逡巡したが、シンガーソングライターのこと、YouTubeのことなどをかいつまんで話した。
「良い夢じゃないですか!」
 山本さんは手を叩いて喜んでくれた。
「私、家帰ったら井上さんの曲聴きますね。」
「ありがとうございます。何か恥ずかしいですけど嬉しいです。」
「その気持ち分かります。私の絵もそうなんです。」
「冗談ですけど、いつか私の歌がCDになったらジャケットは山本さんに描いて欲しいです。」
 知之は本当にそうなったらいいなという気持ちと、実現しないだろうなという気持ちが半々だった。
「それ素敵ですね。私で良ければ描かせてください!」
 山本さんは真っ直ぐ私の目を見て、話したくれた。
「何か俄然やる気出てきました。」
 知之は少しおちゃらけてぐるぐる腕を回して、やる気を表現した。
「七番のお客様、大変お待たせいたしました。」
 店員が弁当を準備しながら言った。知之はもう少し話したかったなと思いながら店員の声を聞いた。
「私ですね。お話ありがとうございました。歌頑張ってくださいね、またここで会ったらその話聞かせてください。」
「もちろんです。私も山本さんの新しい絵を楽しみにしてますね。」
「では、よいお年を。」
 山本さんはきっちとしたお辞儀をして帰っていった。
知之は山本さんに惹かれていた。ルックスは好みだったがそれだけじゃなくて、話していて楽しかった。好きなことも前向きに取り組んでいることも好感を持った。知之はまた会いたいなと思った。
 自分の弁当を受け取って帰路に着いた。知之は弁当屋で起きたことを思い返していた。名前も知らない初対面の人と、普段心の奥にしまってある気持ちをさらけ出して話が出来た。家族にさえ、恋人にさえ話したことのない気持ちだった。お店に入ったときはあんなに心が荒んでいたのに、気づけばほぐされていた。これっきり会うこともないと思えるような出会いだったから、話せたのかもしれない。何か不思議な力が自分の背中を押してくれたのかもしれない。
 知之は次の日からさっそく曲作りを開始した。昨日のままの気持ちで曲をつくった。時間と共に薄れていくような気がして、ご飯を食べる時間さえ惜しかった。つくっては壊しを繰り返して、気づけば大晦日になっていた。除夜の鐘を聴きながら、作業をした。紅白歌合戦が終わる頃には満足のいく曲が完成した。無論、完成した作品というには程遠いが、今の自分にできる精一杯を出しきった。この達成感は就職してから感じたことのない初めてのものかもしれない。最後にもう一度聴き、YouTubeに投稿した。知之はそのまま倒れるように寝た。
 翌朝目を覚ますとつけっぱなしになっていたテレビから明けましておめでとうございますと聞こえてきた。晴れ着姿の芸能人が賑やかに何やらやっている。知之は身支度を整えると、一人で初詣に出掛けた。
 三世代の家族やカップル達が参道に溢れるなか、ご神前へ向かう。遠い賽銭箱に五円玉を投げ入れた。願い事を考えたとき、昔祖父から『神様への願い事というのは、神様に向かって話しているではなく、自分の心に話しているんだよ。年の始めに自分の願いを再確認することこそ、初詣の良いところだと私は思っている』と言われたことを思い出した。今の自分の願いは何だろう。仕事が上手くいくこと? シンガーソングライターになること? 弁当屋で会った山本さんと付き合うこと? 色んな想いが溢れてきたが、一番強い感情は感謝の気持ちだった。年末の深夜の弁当屋で会った三人との関わりは少なくとも自分人生を良い方向へ傾けてくれたはずだ。知之は彼らの幸せを心に願った。
 家に着くと、スマホが震えた。ポップアップを見ると、YouTubeのゆきともチャンネルにコメントが二件ついたみたいだ。酷評で新年早々落ち込むのは嫌だなと躊躇いながらもコメントを表示した。失恋ソングのコメントには『心に刺さるメロディ、歌詞で最高でした! 武道館ライブはいつですか? Bar peace店長より』とあった。嬉しくて嬉しくて顔のにやけが収まらなかった。昨日のアップした曲には『真夜中の弁当屋という曲、何度も何度も聴きました。明日から頑張ろうと思える曲で、ついぐるぐる腕を回しました! サグラダ・ファミリアの絵描きより』とあった。山本さんが褒めてくれて、天にも昇る気持ちだった。山本さんと付き合えるように、ホストに教えてもらった単純接触効果が出るように頑張ろう。またあの弁当屋で会えるように何度でも通おう。知之は鼻唄混じりに新曲を考え始めた。

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