2020年をてちで振り返る

 2020年は絶望で始まり、歓喜で終わろうとしている。
 一体何の話? 未だコロナ禍の真っ只中で、歓喜することなんてあったっけ? そういう方も多いでしょう。それもそうだけど、個人的にはやはり歓喜してしまう。

「平手友梨奈という魅力~ギャップ(https://note.com/7502/n/n9c767c093152)」で書いたけれど、2020年1月23日、彼女が所属していた欅坂46から脱退するというニュースが飛び込み、愕然とした。
 恩返しのために欅坂に戻ったと雑誌で語っていたのだから、こうなることは覚悟していた。でも、勝手にもう少し先だと思っていたのだ。何より、欅坂を離れた彼女が芸能界で活動してくれるのか。正直言って、そのことが一番不安で、もしもを考えると胸をかきむしりたいような思いにとらわれる。
 表舞台に立つのではなくクリエイターとして活動するのかもしれない。それは合っているように思うけれど、とても困る。SNSを使って、自分の関わった作品の宣伝などはしそうにない。表だろうが裏だろうが彼女の表現する作品を受け取って、応援したいのにできなくなってしまう。でも、無理やり表にいてほしいとは思わないのも本心。どうすればいいんだ。アンビバレント!(便利)

 前置きが長くなったけれど、もうお分かりですね?
 これは、単なるてちオタバカが、2020年のてち(平手さんの愛称。可愛い)について、そして欅坂についての超個人的意見を述べるだけです。まったく公平ではないし、専門家でもないので不快に思う人もいるかもしれません。遠慮なく読むのを止めて、「素人の言うことだからな~」と忘れちゃってください。あくまで私の意見なので、反論は受け付けません。しかも、毎度のことながら長いです。お知らせはしましたよ。いいですね? 知りませんよ。


 私の杞憂は3月4日、払拭される。
 そう。平手友梨奈オフィシャルサイトの開設! といっても、SNSは一切なし。通知機能もなし。メッセージも送れない。常に監視しなくてはいけないサイトだけど、それすら「らしく」て十分だった。とりあえずは、表舞台にいるという証しに心が浮き立った。


 振り返ってみれば、2020年は私がてちを追い続けた中で、最も多くの活動を見守ることができた年となった。毎月の安否確認であり癒しの存在だったSOLがないことは大きな打撃で、いかに幸せな時間だったのかを思い知ったが、それすら忘れさせてくれるほど様々な顔を見せてくれた。


 今年は映画『さんかく窓の外側は夜』の出演だけかもしれない。でも、欅坂で負ったケガをケアするためには、そのほうがいい…と思いながら、どうしようもない淋しさといなくなってしまうんじゃないかという不安を持て余していた。

 私はまたしても失念していたのだ。てちはサプライズ好きで、いつも予想外に翻弄してくれるということを。


『Olive』特別号を皮切りに多くの雑誌の表紙を飾り、「WanteD! WanteD!(Side Story ver.)」MV、ラジオ TOKYO FM「TOKYO SPEAKEASY」、アンリアレイジのオープニングモデルとしてパリコレのショー映像、FNS歌謡祭夏の森山直太朗さんの「生きてることが辛いなら」コラボレーション、映画『ザ・ファブル 2』のヒロイン、音楽実験番組『シュガー&シュガー』の出演、そして、衝撃で運命のシングル「ダンスの理由」披露及び配信リリース、公式YouTubeチャンネルの開設とMV公開。不安になってるヒマなんかないよ?と言わんばかりの勢いで、次々に作品を届け続けてくれた。何たるサプライズ。ドッキリ。最大級のファンサービスだ。

欅坂と映画


 2020年のてちについて書くにあたって、やはり欅坂を無視するわけにはいかない。 

 といっても、あくまで本筋はてちなので、話がそれすぎない範囲にとどめておきたい。私の中で欅坂は主人公の僕がいた「黒い羊」で幕を閉じたので、その先のことをあれこれ言うのは違うかなとも思う。

 てちの脱退後、発表された欅坂の映画『僕たちの嘘と真実』。その予告を見て改めて思った。アイドルが嫌いだ。


 正確に言うのならば、アイドル商法が嫌いなのだろう。特に今回の映画の宣伝の仕方や演出にはゾッとするくらいの嫌悪感を抱いた。それは「パフォーマンスで反論するしかない」と言い、実行してきたてちの姿勢と真逆のように感じたからかもしれない。作られたドキュメンタリーなど見たくないが、ずっと見たいと切望していた2017年ツアーの「不協和音」や幕張メッセの「ガラスを割れ!」、音漏れを聞くだけで震えた武道館の「黒い羊」はどうしても見たい。
 見たくない。見たい。気持ちが決まることはなく、チケットも買わずにいた。が、『ROCKIN'ON JAPAN』10月号の特別別冊インタビューで「本編に描かれていること、言葉がすべて真実だとは思わないでほしいです」という本人の言葉が決心させてくれた。よし。純粋にライブ映像を見に行こう。

 率直な感想は「なるほど」だった。
 納得のなるほど、ではない。「ある方向からの事実だけ、主人公ありきで作られたドキュメンタリーはこうなるのか、なるほど。ここに描かれていることだけが真実ではない」だ。さらに言えば、欅坂を語るうえで絶対に外してはいけない事件に触れず、2017年のツアーにおいて、てちからメンバーに「表現ができない。助けてほしい」と伝えていたことやセンターの人呼び等々…知らないのか、意図的なのか排除していることも多く、それならばライブのメイキングとライブ映像で構成した純粋な音楽映画が見たかった。欅坂のパフォーマンスの世界観をもっと感じたい。逆に言えば、そう思うくらい映画の中でもライブ映像は素晴らしく、短い時間でも釘付けになった。

 見てよかったと思ったのは、ライブ映像ともうひとつ。私の中での謎が解けたこと。

 自分でも不思議だった。どうして、てちがいない欅坂には心が揺さぶられないのか…。2019年の横浜アリーナ公演では、むしろ「ああ、やっぱり欅はすごい!」と感じて箱推しになれたらいい、なりたいとも思ったが、できなかった。何が悪いわけではない。だから、余計にどうしてなのかわからず、モヤモヤし続けた。
 映画の中で、2019年ツアーについてのメンバーインタビューとライブ映像を改めて見て腑に落ちた。それは、表現の方向の違いだ。
 てちが自分を出すのではなく「曲の世界を、曲の中の人の思いを届けよう」としているのに対して、ツアーでセンターを務めたメンバーは「曲を、いかに自分らしく表現するか」だった。
 どっちがいい悪いではない。もうこれは好みの問題だ。そっか。じゃあ仕方ない。だって、私は「曲の主人公として、そこにいる」というてちであって、てちではなくなる、有無を言わせず曲の世界に連れ去るあのパフォーマンスに魅入られてしまったのだ。好みの問題ならば、何も引け目に感じることはない。そう納得できたからこそ、「黒い羊」で区切りをつけられたのだろう。

 そして、映画といえば、てちの出演2作目となる『さんかく窓の外側は夜』だ。


 本来は10月公開の予定だったが、コロナの影響等もあり2021年1月22日に延期となった。早く見たい気持ちはあるけれど、個人的にはよかったと思う。欅坂の映画と公開時期が大きくズレたためきちんと区切りをつけて向き合えること、何よりプロモーション期間が長くなったので、よりたくさんの3兄妹に会える。

 さらに2月5日は『ザ・ファブル 殺さない殺し屋』も公開する。


 まだ作品を見ていないため語ることはできないが、『さんかく窓~』の森ガキ監督の 「英莉可を平手さんとして読んでいた(『FREECELL vol.35』)」や、『ファブル』の江口監督がキネマ旬報をはじめ様々な媒体で語った「平手さんは相手と呼応する人」という表現が心に残り、2018年に公開した『響』の当時助監督だった後藤さんの「平手さんは自分自身を確立しているだけでなく、周りを巻き込む力も持った、実に稀有な表現者(『月刊カドカワ20180918月号』)」というコメントを思い出した。
 演じるというよりその人物としての存在を感じること、相手に呼応し変化する、まわりを巻き込む力。食い違っているようで、同じことを意味しているのだと思う。それは「作品の中の人として存在する」ということ。
『響』はまわりに影響を与えて、意図せず変えていく。それとは逆に『さんかく~』や『ファブル』は他者との関わりによって、少しずつ変化していく。どう演じるかではなく、その人物を届けようとしているため、作品によって「巻き込む力」や「呼応する人」と、一見、相反するような人物像になるのではないだろうか。

 てちの表現との向き合い方は、音楽だろうが映画だろうが変わらないと改めて思う。ただ、その作品、人物の思いを届ける。それに尽きる。『ファブル』のヒナコには、応援したいという思いも加わったが、それすら自分を表現するためのものではない。『MORE 2021 02』のインタビューで、場所が変わっても変わらないと語っている。ブレなさに、安心してしまった。
 宣伝用の写真を見ても英莉可とヒナコはまったくの別人。劇場で2作品の予告が連続で流れたけれど既視感がないことに驚いた。2つの作品を見た後、どういう気持ちになるのか。今から1月22日が、2月5日が待ち遠しい。

個性とパフォーマンス


 自分を表すときに、てちがずっと言い続けている「無」という個性。欅時代から、曲によって顔つき、雰囲気だけでなく性別すら変わる姿を目の当たりにしていたので、何となくわかる気もするけれど、イマイチぴんと来ていなかった。
 でも、怒涛の2020年を経て、ようやく、そういうことかと思えた。自分の歌ではないコラボレーションでも「WanteD! WanteD!」と「生きてることが辛いなら」では全く違う。等身大の感情が溢れだしたような2人の少女、慈愛に満ちた母性と生命の繰り返しを感じさせるしめじちゃんとのパフォーマンス。


 どちらも初めて見るてちだったけれど、今までと変わらない姿でもあった。いや、矛盾してますよと言われそうだが、そうとしか言いようがない。
 てちは、いつもその曲を全力で伝えてくれている。欅時代においても、ひとりとして同じ人はいない。「不協和音」の僕と「黒い羊」の僕は違うし、「アンビバレント」の主人公も唯一の存在だ。毎回、新鮮な魅力に溢れていた。それと同じなのだと思う。
「黒い羊」が魂を注ぎ込むようにして生まれたものだとすれば、「WanteD! WanteD!」は魂が踊り、「生きてることが辛いなら」は全てを包み込んでいるようだった。曲が違えばてちの表現する人物も違う。


 それは雑誌でも同じ。

 少女と少年の中間のような輝きと危うさの『Olive』、『M girl』の妖艶な色気と凛とした佇まいに息を飲み、『ROCKIN'ON JAPAN』の性別平手友梨奈としか形容できない格好よさに痺れた。かと思えば『ViVi』ではやんちゃなキャロい姫にもなり、『装苑』は絵画に描かれた妖精のようで、むしろ羽根がないことに違和感…というのは言い過ぎか。でも、羽根があっても自然に見えただろう。

 サプライズの多いてちの活動の中で、最大級だったのがアンリアレイジのパリコレオープニング映像の出演だ。2019年2月に公開したアンリアレイジのコンセプトムービーでも「うわ、こんな神々しい、てち初めて!」と感動したが、今回はさらに温かくしなやかで、透き通った清流のような美しさ。何度目かの「初めて見るてち」であり、「Yurina Hirate(Techi)」として歩きだした瞬間だったようにも思う。

 映画、音楽、雑誌、パリコレ。どの場所、ジャンルでも「その場によって変化する」のは共通している。どうして、そんなことができるのだろうか。不思議でたまらなかった。その答えが、「無」という個性なのかもしれない。無だからこそ何にでもなれる。というより、そうでなければ、こんなにも鮮やかに違う印象を残し続けることなどできないのではないか。


 興味深いのは、自分ではなく作品を届けようとすればするほど、その姿勢自体が大きな個性となって輝くところだ。それは「自分らしさを出そう」と演出した個性ではなく自然と溢れたもので、存在そのものの輝きなのだと思う。しかも、関わる作品によって輝き方は変わるため、青にも赤にも、光を遮断した黒にもなれるし、何色にもならない。
 万華鏡のようにわずかな動きでクルクルと変わり続ける表現者。しかし、時折、垣間見る素のてちは、「もー!」と可愛く怒ったり、いひひ、うふふとよく笑うイタズラ好きの末っ子カワウソだ。心を開くまで時間がかかっても、一度、信頼関係ができれば愛情深く誠実。何だか柴犬のようだと思ったりする。凛々しい黒柴か、小鉄のような茶柴か。想像するとニヤけてしまうのは、我ながら怖いと自覚している。


初のソロシングル「ダンスの理由」


 今年はムリだろうと思いながら最も願っていたのは、てちの歌を聞くこと。もしかしたら、カバーや誰かとコラボをして一緒に歌うことはあり得るかもしれないけれど、てち自身の歌、ソロ曲は早くても2021年ではないか。いや、もっと先かもしれない。「音楽という色を消したくない」という言葉を信じて待ち続ける他にない。などと思っていたら、またまたサプライズ炸裂。

 だから、そうなんだよ。何度、繰り返したら気が済むんだ。何も動きがないように見えるときこそ動いてるし、あり得ないと思うことが現実のものになっていたじゃないか。

 12月9日「FNS歌謡祭 第2夜」で前情報なし、いきなりの初披露。SNSでトレンド入りを果たし、翌朝、情報番組でも取り上げられ、この勢いで配信決定の告知かMV公開が来るか!?と思わせといての、焦らし。はい。予想は覆すんだった。ああ、これはもしや年明けまでおあずけパターンか。いくらでも待つけれども。せめていつなのか教えてほしい。ひょっとして、映画2作品の公開を終えた後……2月、ひと段落する3月になったりして。いや、でもそんなに先だったら、わざわざFNS歌謡祭で披露する意味がわからない。やきもきしながら、ネットで情報をチェックする日々。

 そして、またまたまたサプライズ。1st Digital Single「ダンスの理由」、クリスマスにリリースのニュース。立て続けに先行MV公開。そりゃ歓喜。狂乱。号泣。

「ダンスの理由」MVについての考察記事や動画は見ない状態で、これを書こうと決めた。

 受け手が想像を広げられる余韻のある曲だから、色んな意見が飛び交うのは目に見えている。自分とは異なる捉え方を知ることもとても楽しいけれど、そういう影響を受けず、まずは自分の感じたままを記しておきたい。なので、的外れな考えに「は? 何言ってんの?」と思う人もいるかもしれない。ご了承ください。

 FNS歌謡祭の「ダンスの理由」パフォーマンスを見て、最初に感じたのは、2019年の紅白「不協和音」と通じるもの、だった。それは、欅坂をオマージュしているという意味では全くない。あの「不協和音」は、私にとって「誰かを支配させないために、僕は嫌だ!と叫び続ける」という優しく強い盾のように聞こえた。その精神性が、どこか通じているように感じたのだ。

 MVは、テレビ披露とは違う角度で見せてくれている。FNS歌謡祭での「ダンスの理由」が現在ならば、MVはその源となる物語。そんな時空を超えても、変わらない思い。

 その壮大なスケールを作り上げているのは、間違いなく「ダンスの理由軍団」全員だ。あえてチームではなく、軍団としました。それくらいの一体感。メインなど立ち位置や映っているから、映っていないからではなく、全員が同じ方向を見て、同じ熱量で、おそろしいくらいの本気でこの曲と向き合い、ただ届けようとしていることが画面からほとばしっている。細かい表情はわからない全体を映す引きの構図でも、どの瞬間を切り取っても世界観が一切崩れないのは、そのためだろうと思う。

 「ダンスの理由」で、改めててちの声に聞きほれた。

 「I got it!」や「(何も)…ない! Understood!」などの体の奥に響くような低音だけでなく、「憎悪してた」や繰り返す「何も…」の中のささやきのような高音、今にも消えそうな「死なせない」。

 何て表情のある声をしているんだろう。決意や怒りという強い感情だけでなく、祈りや儚さまで感じることができる。そして「許さない」や「憎悪してた」という強い言葉のときに、あの低音でドン!と叩きつけるのではなく、そっと残すように歌っていることが、より多彩にしている。「憎悪してた」と歌いながらも、感じるのは憎しみではなく、どうしようもない切なさや悲しみ。憎悪なんかしたくなかった。そんな声が聞こえてきそうな気がする。

 この曲を繰り返し聞き、悲しみを癒そうとしている相手は誰だろうと考えると、今、発信する意味に思い当たった。誰かといえば、ひとりで泣いている人であり、ひとり踊ることで乗り越えた「あの頃の私」であり、医療従事者や教育、小売業、流通などコロナ禍において最前線に立ちざるを得ないすべての人だろうと思えた。

「犠牲はしょうがないなんて、部外者に言わせるものか 私が許さない」

 より重く、深く響く。

 この曲はすさまじい愛だ。「私がついているから、前に進め」と動かそうとするのではなく、ひたすら寄り添ってくれる。何もできないなんてわかっている。それでも、その悲しみ、苦しさが一瞬でも癒せるのなら、いくらでも夢のようなターンを決める。そんな思いが傍にあると知れば、何度でも立ち上がって歩き出せるに違いない。

 そして、MVに登場する鹿のSUN。禍々しい存在で対決の場面もある。SUNは、誰かに貧乏くじを与える「何か」だと感じた。人の悪意もあれば、自分を責める自分自身かもしれない。病気や天災でもあるだろう。

 最後、共に踊る姿は、排除した「After」ではなく、共に生きる「With」に映る。この世界から悪意も病気も天災もなくすことは不可能だ。共に生きていくしかない。その中で、誰かがひとりで泣いているのなら……。しかも、誰かを癒すことで、あの頃の私も救っている。やっぱり、すさまじい愛だ。

 この曲がてちの1st シングルで本当によかったし、何より心強い仲間とまた出会えたことがうれしくてたまらない。


幸せと不安な未来


 とんでもない長さになりました。ここまで読んでくれる人はいないと思いますが、最後に未来の話も…。

 まずは、今夜! 絶対に叶わないと思っていた、てちとの年越し。

 「CDTV ライブ!ライブ!年越しスペシャル 2020→2021」への出演。ダンスの理由軍団にまた会える。あの夢のようなパフォーマンスを目に焼き付けて、新年を迎えられる。何ていう幸せな年越しだろう。できることならば、この曲だけではなく、また違う曲でも集結してほしい。そして、いつかライブでみんなの迫力を味わいたい。

 ここで終わらない。1月3日には「世界の果てまでイッテQ!新春スペシャル!」が待っている。その19日後には、いよいよ『さんかく窓~』の公開だ。

 こんなに幸せに満ちた未来が待っているなんて、妄想すらしていなかった。ぴょんぴょん飛び跳ねたい喜びとともに、「ふっといなくなってしまうのではないか」そんな不安は消えない。いや、むしろ増してしまう。なぜだろう。どんなに力強いパフォーマンスをしていても、儚さをはらんでいる。

 予想外が十八番のてちだ。油断大敵。

 ずっといてくれる。表現してくれると安心して目を離した途端、どこにいるのかわからず見失ってしまうかもしれない。そんな不安と緊張感すら惚れた者の特権として大事にしよう。てちから「Techi」になっても、どこまでも追い続けたい。

 新年への決意表明で終わりたいと思います。



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