3人の少女と平手友梨奈

ソロになってから、怒涛の勢いで作品を届けてくれているてちこと平手友梨奈さん。その作品たちはコロナの影響で公開や撮影が延期となり、2021年になって私たちの元に届いたけれど、ファンとしては長い間、楽しみに待つことができて幸せだった。

今回は女優平手友梨奈について、単なるオタ目線で書いていきます。

もちろん公正なわけがないし、専門家でもなんでもない、いち素人の偏愛に満ちた思いでしかありません。ちょっとでも疑問、不快、苛つきの症状が出たら、遠慮なく読むのをやめて「くだらねー」と笑っちゃってください。反論や異議申し立ては受け付けていませんので、悪しからず。

ドラゴン桜以外は原作に存在するキャラクターです。原作は人間関係や設定の把握程度しか読んでいません。あくまでも映画において、てちが演じたそれぞれの人物に対して感じたことです。めちゃくちゃ長いうえ、ネタバレもあるのでご注意ください。



孤独な非浦英莉可

https://movies.shochiku.co.jp/sankakumado/

最初に届いたのは、2021年1月22日に公開された映画『さんかく窓の外側は夜』だ。生まれ持った人を呪う力で教団の呪い屋稼業をしている女子高校生。いや、呪いって。オカルトですかと思った人、正解。

霊を祓う男・冷川理人、霊が視える男・三角康介、呪う女・非浦英莉可の3人によるオカルトサスペンス作品…というと、わかったようなわからないような感じだけど、オカルト要素よりも「異端な者の孤独」がメインだからか、違和感なく入り込めた。

3人それぞれ孤独を抱えているが、個人的には英莉可の孤独がいちばん深いように思う。

自分の力を身近な大人たちに利用され、行動を強要されるという状況、はからずも呪いの力を発揮してしまうことは冷川と同じだ。だが、冷川には側で見守ってくれた、信じない男・刑事半澤がいる。

英莉可には教団関係のボディガードはいるが、半澤のような存在はいない。
原作と映画の英莉可で大きく違うのは、よりわかりやすく「孤独」を表現しているところだと思う。

映画の英莉可は孤独そのものであり、感情を封印しているように映る。そうしなければ自分がやっていることの恐ろしさや苦悩から目を背けられないのではないだろうか。だからこそ、呪いをかけるときあることをする。

そんな英莉可の感情が垣間見れる場面がある。

呪いをやらせている父親に「罰が当たる」と言われ、怒りを露わにする。人を呪い続ける、この暮らし以上の罰などあるものか。あるなら言ってみろ。そんな心の声が聞こえてきそうな、英莉可の静かな怒り。

そして、ラストで三角にお礼を言われた後に返す「ありがとう」。自己中毒から救ってくれたときは、素っ気ない「あ、ども…」だったのに、お礼を言われたことへの困惑や誰かの役に立てた喜びと感謝、それらが混じり合った万感の「ありがとう」であり、英莉可の感情が生き始めた瞬間だったように思う。

パンフレットに、てちがこのシーンで涙が出なかったことをくやしがっていたと書いてあったが、泣けない、震えるようなありがとうがリアルに響く。

今まで感情を殺してきた子が、急に泣けるだろうか。おそらく感情のままに泣けるようになるには、もう少し時間がかかる。それは英莉可の救いであると同時に、今まで目を背けてきたことと向き合いざるをえないという試練になるに違いない。

冷川にとって三角のような存在ができてほしい。

そういう自分の心を寄せられる相手ができたとき、今まで呪い殺してきた人もまた誰かにとって大事な存在だったと身をもって知るのだろう。その重さを共に感じてくれる相手がいてほしい。自分の過去を思い出し、犯してしまったことに打ちのめされた冷川を必死に探し見つけ出した三角のような存在を得られますように。そう思わずにいられない。

英莉可のその後を想像できるのは、目と声だけで呪いという非現実的な能力の存在を感じさせ、ごく小さな動き、表情、声色で「特殊能力を持つ者の孤独」をリアルに届けてくれたからだと思う。

余談だが、『さんかく窓~』で面白いと思ったのは、信じない2人が真逆な存在であることだ。冷川の過去にいる男であり、英莉可に呪いをやらせていた「先生」は呪いを信じていないが私欲のためだけに利用し、同じく信じない半澤は、ある意味冷川の能力を利用しながらも心を砕き見守り続けている。もし自分ならば、どうだろう。信じないとしても否定するのではなく、寄り添える大人でありたい。



前向きな犠牲的精神の岩崎楓


https://www.tbs.co.jp/dragonzakura/

4月25日から放送開始されたTBS系ドラマ『ドラゴン桜』の岩崎楓は、原作にはないオリジナルキャラクターだ。

自分を飽き性だと言っているてちが、こんなに早く連続ドラマに出演することに驚いたけれど、楓が「バドミントンの全国レベル選手で何事も諦めない努力家で、周りの期待を背負いすぎてしまう」と知って、納得した。届けたい、応援したい子だろうし、どこかてちと共通している。

違う人物なのだから当たり前だけれど、英莉可との違いに「女優平手友梨奈」を改めて感じた。話題になったバドミントンシーンだけでなく、戸惑いや絶望、不安、心配、安堵…細かな感情を丁寧に届けてくれて、画面に映っているのは紛れもなく「岩崎楓」そのものだ。

楓は周囲のプレッシャーや様々なストレスから逃れるため万引きに依存しそうになるが、根本的には前向きだ。ケガの悪化にバディの清野とコーチの裏切り、選手生命の危機…と高校生なら、いや、並の大人でも絶望し何もかも諦めてしまいたくなる状況に陥る。しかし、桜木先生の言葉もあり、スポーツ医学とオリンピック出場、さらに選手引退後はケガで苦しむアスリートを救うという、とんでもなく前向きな人生プランを掲げるのだ。

どんな状況にあってもめげない超前向きパワフルガール!
そんなコピーがついてもおかしくないのに、そうではないところが楓らしさであり、魅力なのだろうと思う。それが犠牲的精神だ。

信頼していたであろう清野とコーチが推薦を横取りするためにケガを悪化させるよう仕組んだとわかり、ショックは受けても責めるのは相手ではなく、自分。「ケガをして隠そうとしたのは自分だから、恨んでない」と試合で本調子が出ない清野を激励までする。

いやいや、いい子すぎる! 怒っていいんだよ! 桜木先生も、どうしてきちんと糾弾しないんだ。と腹立たしく歯がゆい気持ちになってしまう。しかし、楓はいい子なのではなく、何かあったとき、他者ではなく自分に原因があると考えるのだろう。

東大をめざすことを決めた楓が両親に打ち明けられないのも、犠牲的精神の現れだ。ケガで試合や推薦を諦めなければいけないことで最もショックを受けているのは自分のはずなのに、応援し続けてくれた両親を失望させたことを重く受け止めている。

だからこそ、初めて両親にきちんと自分の思い、希望を伝えたシーンが輝く。例え両親の望みではないとしても叶えたい未来。それを反抗期全開でわめき散らすのではなく、絞りだすように、しかし、はっきりと伝える声と表情。楓の揺るがない決意を感じさせる。

楓の前向きだけど犠牲的、目的のためならどんなことでも取り組む柔軟さと自分を追い込んでしまうストイックさ。このブレが、全国的な元選手が東大をめざすという、まるで完全無欠のヒーロー的な近寄りがたいキャラクターを、身近にいそうな応援したくなる女子高校生として存在させた。

個人的に好きなのは、楓の背中だ。
ケガをしてバドミントン部を去るときの駆け寄って抱きしめたくなる消えてしまいそうな背中、親に思いを伝えてブレずに東大をめざす決意を新たにした、ついていきたい痺れる背中。ただ歩いているだけなのに、その時の感情が溢れている。


健全な佐羽ヒナコ

https://the-fable-movie.jp/

てちが演じた3人の中で、最も衝撃的で健全なのが、6月18日公開の映画『ザ・ファブル~殺さない殺し屋』の佐羽ヒナコだと思う。

衝撃的なのに健全とはどういうことだと言われてしまいそうだ。置かれている環境や過去は間違いなく衝撃で壮絶だけど、根っこは健全という感じだろうか。

それは3人の中で、唯一、思い出に喜怒哀楽と反抗期があるからだ。
ヒナコの反抗は度が過ぎていたけれど、愛されていたからこそ自分の感情をさらけ出すことができる。それは、とても健全なことだ。

しかし、序盤のヒナコは感情や健全さとは無縁なところにいる。たまに見せる笑いも、自嘲、乾いた諦めのもので痛々しく映る。

佐藤との出会いによって、表情や声、姿勢が微細に変化していくのだが、その様を見ていると、素地にないものを得ることは非常に困難で長い時間が必要になるけれど、元々あったものは封印したとしても、出会いや心の持ち方によって呼び起こすことはそう難しくないのかもしれない、そんな気持ちになった。

いや、もちろんヒナコが鼓舞し、立ち向かったことは「難しくない」なんていう軽々しい言葉では済まないとわかっている。それでも感情を取り戻していけたのは、根本に「笑って泣いて、怒って、感情のまま生きていた普通の暮らし」があったからなのだと思う。

その普通の暮らしの象徴のような色つきリップクリームの使い方が秀逸だ。ハイブランドではない、中高生なら誰でも持っていそうなありふれたリップクリーム。友達と気になる男子の話をしながら、どの色がいいかと笑った日もあったのかもしれない。そんな思い出とも呼べないくらいの日常が詰まったものを、ヒナコは引き出しの奥にしまっている。

大事に持ち歩くのでも、宝物のようにキレイに保管するのでも、捨てるわけでもなく、ほとんど物が入っていない引き出しに無造作に入れている。あの日常を完全になかったことにもできず、かといって大事なものとして向き合うこともできない気持ちの現れのように見えた。もしかしたら、佐藤と出会うまではその引き出しを開けることすらなかったのではないだろうか。

最後の山の中は圧巻の一言に尽きる。

宇津帆の人間臭い厭らしさ、鈴木の冷徹になりきれない情の深さ、そしてヒナコのショート寸前のヒリつきから真っ赤な炎への爆発。それぞれの心情を繊細に描いた息詰まるシーンの後での、CGを使わなかったという爆破。何度観ても、釘付けになってしまう。

『ファブル』の中で強く印象に残っているのは、ヒナコが初めて鉄棒に捕まって立つことができたときのやわらかな笑みと思わず佐藤を探し、表情を曇らせるところだ。そして、離れたところから見守っていた佐藤。

これと同じことが起こってほしい。

前作のキャラクターが出てきたように、いつか先の『ファブル』で、自分の足で歩けるようになったヒナコを遠くから見守る佐藤の姿が見たい。


平手友梨奈の静と動

初出演であり、主演映画『響』を含めて4作品を観て思ったのは、演技の静と動、どちらも生きているということだ。

響の揺るがない目、英莉可の呪う目、楓の決意の目、ヒナコの立ち向かう目。話題となるこれらの目力は、動の演技に過ぎない。

でも、あまりに自然すぎて「すごい」という意識すらさせない静の演技にこそ、「その人、作品を届ける」というてちの姿勢が詰まっているのではないかと思う。それは怒りや歓喜といった大きな感情ではなく、戸惑い、不安、わずかに芽生えた希望などごく小さな感情の揺れを表現している、視線や口、首の動き、息の使い方、声のトーンなどだ。

特に眉の使い方にはうなった。
眉間に皺をよせるだけでなく、左右で高さを変えたり、まっすぐで無になったかと思えば、困ったように下がったりと変幻自在だ。こんなに眉って表情豊かだったのかと感心する。それも「こうしよう」とあえてやっているのではなく、その人物として自然な仕草にしか見えない。実際、本人は眉をどう動かしたかなんて覚えてないに違いない。

静と動の演技、どちらも存分に発揮されているのは、ヒナコだろう。
序盤の感情を封じ込めたヒナコは常にうつむき、視線もほとんど動かない。唇の端をわずかに歪めるだけの笑み。全てを拒否し、自分を守るような丸まった姿勢。

それらが、ほんの少しずつ変化していく。
佐藤の猫舌に眉を上げて驚き、思わず漏れた笑み。目の輝きと顔、姿勢の変化が素晴らしかった。パソコン画面を鏡がわりにしていたヒナコが、明るい日差しの中、しっかりと鏡を見て丁寧にリップを塗るシーンは、セリフもなく動きも少ないけれど、そのまっすぐな目と顔を上げた姿勢から、未来に希望を見出した気持ちの変化を感じられ引き込まれた。

さらに扉を開けて光差す外の世界へ出て行くヒナコと、その後、ひとり計画を練っていた部屋から姿を現し、立ち尽くす宇津帆の対比によって、宇津帆もヒナコの変化を感じ取っているとわかる。

こうした静の演技が自然であればあるほど、爆発した動の演技が際立つ。

これはヒナコだけでなく、『ファブル』自体にもいえる。アクションにも静と動があるため、作品の中で変に浮いていないように思う。

車や団地アクションが「動」だとするならば、しなやかで強くセクシーなヨウコのアクションは「静」だ。その緩急があるからこそ、ヨウコの存在もリアルになる。

元々、アクション映画は観ることはあっても、好きとはいえなかった。

それはアクションシーンだけ浮いて、作品の人物やドラマと離れていることがあるからだ。アクション目的ならば問題ないだろうが、そこまでのアクション好きではないため、どうしても冷める。今まで見入ったドラマは、これを撮りたいための前振りだったのか? そんな気持ちになると、派手なアクションが繰り広げられるほど、作品から気持ちが離れていく。

だが、『ファブル』ではそれがなかった。

てちの師匠であり、友達、お父さんにもなってくれた岡田准一さんが木村文乃さんに言った「アクションも演技のひとつ」という言葉、そのものだ。アクションのためのアクションではなく、演技としてのアクションだったため、作品や人物から離れることなく没頭できた。


岡田さんとてちの親和性はどこから来るんだろうと不思議だった。

お互いアイドルグループ出身で最年少、不器用…そういうところかなと思ったが、「アクション」をあくまで表現方法のひとつとして捉えていると知り、納得いった。

それは、てちにとってはおそらく「ダンス」なのではないだろうか。

欅時代、振付師のTAKAHIRO先生に「どういう気持ちで腕を上げるのか」と聞いたことを思い出した。単なる歌の添え物、カッコよく決めるためのものなどではなく、曲の世界や思いを届けるための表現のひとつ。だから、てちのダンスは見た目のカッコよさだけでなく、心を掴まれるのだ。

そして、ダンスにしろ、歌にしろ緩急のバランスが取れている。ゆっくりとした動きや美しい止めがあるから、激しさがより目立つ。囁くような声とお腹に響く強い声。どちらもあることで、心地よさと不確実性に惹きつけられる。

知れば知るほど面白く、稀有な人だと思う。静と動のように、相反するものが矛盾なく共存している。

自信が持てず今にも消えてしまいそうな儚さと作品のためなら全力でやりぬく強靭さ、性別を飛び越えてときめいてしまうカッコよさと子供や妖精のような可愛らしさ、どこまでも孤独な感じがするのに、共演するたびお兄ちゃんやお父さん、お姉ちゃんができるほがらかな甘えん坊。超絶人見知りだけど、ディスカッションが楽しくて仕方ないという。こんなの目が離せないに決まっている。

以前、てちのことを「万華鏡のような表現者」と書いたが、さらに映し出す模様が多彩になっているように思う。芝居にとどまらず、音楽やモデルなど全てのジャンルにおいて、その作品ごとに違う色、輝きを放っている。全て違っているが、同時に全て平手友梨奈でしかないようにも見える。

きっと見ている人によって映り方も違うのだろう。私が見ている英莉可やヒナコと、他の人が見ている英莉可とヒナコは違う顔のような気がする。叶わないけれど、それも見てみたい。


7月14日、平手友梨奈、音楽のターン

明日、『FNS歌謡祭 夏』への緊急出演、しかも新曲「かけがえのない世界」を初披露してくれるという。

はい、出ました。
音沙汰なくなってからの、このサプライズ。
前回の「ダンスの理由」のときは、ただ出演するということしかわからず、当日になっても、何をやるのか不明だった。出番直前に明かされる超ド級サプライズだった。

同じことはしないよ?と言わんばかりに、今回は事前に新曲披露を明かしてくれた。コラボなのか? それとも歌ってくれるのか? そういう疑問はない代わりに、新曲「かけがえのない世界」は曲名以外謎のまま。どういう感じなのか。ひとりなのか。いや、チームのような気がする。じゃあ、曲名からしっとりな気もするけど、そう思わせといてダンス系? ラップもあり得たりする? 妄想が止まらない。

当日は朝からドキドキしすぎて手が冷たくなって、胃が痛くなるだろうし。正座をして祈るような気持ちで釘付けになるのだろう。オタ達の「ケガなく、作品を届けられますように」とまるで試合を見守るような感じ。あの独特な緊張感をまた味わえる、応援できることの幸せを噛み締めよう。


いつものごとく長くなってしまい、ここまで読んでくれる奇特な人はわずかだと思うので、てちへの思いと感謝で、キモくしめたいと思います。

ソロになったとき、表現することは続けたとしても表舞台に立ち続けてくれるのか、どのくらいの頻度で活動してくれるのか不安で、とにかく待ち続けようということだけ決めた。が、そんな杞憂など軽々と飛び越え、むしろ吹き飛ばす勢いで走り続けてくれて、本当に感謝しかない。

『ViVi 8月号』で書かれているように、本人は「え、何にもしてないのに。すみません」と申し訳なさそうにするかもしれないけれど、応援できる場所で表現し続けてくれる、全身全霊で作品に取り組む姿を見ているだけで血が通いだし、いつもの世界が煌めき始める。14日のために、その日に向けてできる限りの努力をしているであろうてちに会うため、自分もやれることは全てやろう。そんな何だかわからない気力が沸いてしまう。

そう書くと、てちはずっと走り続けなきゃいけないのか。そういう感じもするけれど、ちょっと違う。きちんと休んでほしい。でも、表現したいのならば思いきりやってほしい。望んでいることがあるとすれば、ただ「やりたいことをやれますように」ということだけなのだと思う。それは休むことも含めて。

ひとまずは、「かけがえのない世界」を全力で受け取ろう。
そして「ダンスの理由」MVだけの、YouTube公式チャンネルに2曲目がアップされることを、できるならばCD発売を願って待ちたい。

https://www.youtube.com/channel/UCQthcc4Ikq_PiNOs7wwmP9g


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