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デリカシーというセンサーが違和感

繰り返し手にとる本は、パラパラとめくって数ページ読みます。ぼんやりと考えていたことが単語になって集約されることがあれば、作者の思考と論理の展開を真似てじぶんの探求を置き換えてみたり。そんな引き当ての確率が高いのは、国語総合現代文編。どこからでも読みやすく、評論はちょうどいい文章量です。哲学や社会学に興味が持てなかった10代では、面白さの前に難解の壁が立ちはだかりました。

書物としての教科書と、現代文のエッセンシャルとして読むのでは趣が全く異なります。言葉の読みや意味を検索しながら、書評をいくつか素読みすることで、難解さが溶解します。理解度を補完するまでには至りませんが、検索読みが明らかにわたしへの橋渡しを担っています。

「感性の考古学 赤い花と紫の貝 」三田宗介
デリカシーという言葉が効いています。


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