新井慶一

新井慶一

最近の記事

僕の青べか物語!!

村はひっそりとしていた。町まではオートバイで行った。HONDAのスーパーカブでした。父親はスーパーカブを乗りまわして喜んでいた。クルマがまだ無い時代でした。確か1970年の年号を良く覚えている。下久保ダムが完成した。祖母の実家が鬼石町犬間だった。またお爺さんの妹も鬼石町に嫁いでいた。昔から行ったり来たりした。お爺さんの嫁さんが犬間で。お爺さんの妹も犬間に嫁に行った。だからかなり近い親戚でした。その途中に上野の家があり。そこはお婆さんの実の妹が嫁に行った。だから子供の頃は。鬼石

    • 読売新聞群馬工場の思い出!!

      37歳のときに読売新聞群馬工場に入社。配属先は刷版課。読売本社から送られてきたフィルムをアルミの板に転写するのが主な仕事。プロッターから夕方の5時過ぎから翌日の読売新聞の朝刊の編集記事が次から次へと送られてきました。その前に日曜版のフイルムや自動車の広告のフイルムが届いていました。読売新聞用に3台。報知新聞が2台。製版機が4台。その他には大型のプリンターから新聞用の色ゲラが送られてきていた。モノクロの広告が夕方5時ころから。この時間に夜勤者が毎日出勤する。作業員は製版が3人検

      • チビのももか!!

        チビのももかが大好きなのは安楽亭のカルビー。高校生でも大人一人前のカルビー200gは食べてしまう。ご飯も大盛りを食べた。だから長女と2人で3000円は使ってしまう。サンリオピューランドの帰りに焼肉の安楽亭に寄った。そしたらお腹空いていたのか?2人とも本気で焼肉カルビーを食べていた。だって一人前900円なのに5人前も2人で食べていた。こつちは会計が😟になってきた。それなのにもっと食べると言っていた。 チビのももか チビのももかは僕の娘です。もう20歳を越えた。城西大学薬学部

        • 城西大学経済学部!!

          僕はその頃孤独だった。父親が心配なので学生寮のようなアパートに入ることになった。名前が福島荘といった。大学近くのアパートで学校まで歩いて数分のところ。部屋が決まって入居しても話し相手がなくて。大学に入学してもう3年が経っていて。まわりの人たちとやや年齢が上だし。また1年生なのにもう3年間も大学に席があったから尚更。まわりと話し合わない。家で農業したりしていて。また家が貧乏だし。頭は悪いし。気が弱いし。恥ずかしくて。口もきけない。いつも暗い顔をしていた。ほとんど学食で食べていた

        僕の青べか物語!!

          グランド・F・テニスクラブの思い出!!

          どおしても、書かなければ。ならない。 硬式テニスに夢中になっていた時期。ただただ感謝の言葉だけ。僅か数年間でしたが、楽しかった。ありがとうございました😊。あの時間が無かったなら。もっと農協のリストラが堪えただろう。その後の紆余曲折的な人生もなんとか耐えられたのも、全部グランド・F・テニス倶楽部のおかげ🎾でした。休みの日は、毎日。一週間に7日。テニスをしていた。ラケットは、ヨネックスのR360。厚ラケ。スマッシュとテニスジャーナル🎾のテニス雑誌が愛読書。USオープンとウィンブル

          グランド・F・テニスクラブの思い出!!

          城西大学経済学部の思い出!

          僕はその頃孤独だった。父親が心配なので学生寮のようなアパートに入ることになった。名前が福島荘といった。大学近くのアパートで学校まで歩いて数分のところ。部屋が決まって入居しても話し相手がなくて。大学に入学してもう3年が経っていて。まわりの人たちとやや年齢が上だし。また1年生なのにもう3年間も大学に席があったから尚更。まわりと話し合わない。また家が貧乏だし。頭は悪いし。気が弱いし。恥ずかしくて。口もきけない。いつも暗い顔をしていた。ほとんど学食で食べていた。あとはカップラーメンを

          城西大学経済学部の思い出!

          大江健三郎 叫び声

          大江健三郎さんのノーベル文学賞受賞した 「個人的な体験」を読む前に先ずは「叫び声」を読むことを薦めます。たとえば真っ赤なジャガーEタイプが誰が所有していたのか?叫び声という小説に書いてある。アメリカ人で朝鮮戦争で韓国から日本に移住して。百科事典の販売をしていた。ホモらしい。叫び声の続編が個人的な体験なんです。 叫び声は大江健三郎先生の20代の傑作と言われている。でもあんまり知られてない。作家の伊阪幸太郎大先生がインターネット上で大江健三郎さんの「叫び声」の書評していたのを読

          大江健三郎 叫び声

          新井けいいちの野菊の墓

          僕の中学校2年の時を思い出しながら書いてみます。何故か?僕にとっては、人生の分岐点のような気がするから。この前迄は、幼少期。中学2年生から大人の仲間に入ったと感じた。 中学2年生の担任の先生は、斎藤先生でした。頭が禿げていた。いつもニコニコしていた。クルマがTOYOTAコロナに乗って来た。その当時。最高のクルマでした。四角い箱型。色は、灰色。社会科が専門だった。メガネを掛けていた。背広にネクタイ締めて。 僕は、社会が得意でした。通信簿で唯一5を貰いました。 特に京浜工業地帯と

          新井けいいちの野菊の墓

          城西大学の思い出!!6月1日改訂版!!

          ①城西大学理学部数学科に入学しました。 
城西大学理学部数学科の思い出。記憶の片隅を掘り起こしてみます。
八高線にはよく乗りました。あたりは殺風景な田園風景が続き来る日も来る日も同じ風景を見ていました。座っている人たちも田舎風なおばちゃんが退屈そうにしていたり自動車に乗れないおじいちゃんばかりが電車内にちらりといるだけでした。朝には大東文化大学の学生も幾人かいました。僕は五木寛之の文庫本を固い紙の四角いカバンに入れて群馬藤岡駅から越生駅まで乗りそこから東武東上線に乗り換えて川

          城西大学の思い出!!6月1日改訂版!!

          20代から30代まで

          最新作品 城西大学を卒業してからJAたのふじに入社!その頃の思い出!! 慶一は、城西大学経済学部を卒業してからすぐに藤岡市農協に入った。右も左もわからない。学生時代から、アルバイトもあまりしてこなかった。父親が畑を一反5畝ほど売った。1000万円近くの銭が入った。何故だか知らないが、家は、借金だらけだった。その借金が多くて税務署からの土地代金の税金が免除されたらしい。実家に、お金の余裕があった。慶一は、働くのが面倒なので、親から仕送りを貰いながら遊んで居た。だから働いたことが

          20代から30代まで

          50代の派遣社員時代

          2年前に、吾妻郡草津町の中沢ヴィレッジから藤岡市に移ってから、慶一は地元企業に就職して様ような職場でせっせと働いた。どの職場も派遣社員でした。朝早くから倉賀野町のマクドナルドで朝食を取り原田のラスク工場で働いた。職場は、5階の製造ライン。フランスパンに白いチョコレートを塗る仕事でした。高崎市のハローワークに行く。仕事がなかった。道路の警備員があるぐらい。仕方がない。わらをも掴む思いで、派遣会社に登録した。そこは、原田のラスク工場 専門の派遣会社でした。最初から短期派遣のバイ

          50代の派遣社員時代

          城西大学の思い出 5月29日改訂?

          ①城西大学理学部数学科に入学しました。 
城西大学理学部数学科の思い出。記憶の片隅を掘り起こしてみます。
八高線にはよく乗りました。あたりは殺風景な田園風景が続き来る日も来る日も同じ風景を見ていました。座っている人たちも田舎風なおばちゃんが退屈そうにしていたり自動車に乗れないおじいちゃんばかりが電車内にちらりといるだけでした。朝には大東文化大学の学生も幾人かいました。僕は五木寛之の文庫本を固い紙の四角いカバンに入れて群馬藤岡駅から越生駅まで乗りそこから東武東上線に乗り換えて川

          城西大学の思い出 5月29日改訂?

          母親の思い出!!僕の自伝です!!

          お母ちゃんは、市光工業東平井工場で働いていた。もうひとつ。藤岡市藤岡の光電機。30代から40代まで。よく働きました。村の中でも働きものでした。確か10年間ぐらいだろう。毎朝自転車で工場まで走っていった。毎月10万円は貰えました。家は、貧乏でした。父親が働かない。それなので母親が働いた。制服は、上着は水色でズボンは忘れました。家の物干し竿にかかっていた。お母ちゃんの口癖は、「お金が貰えるのは、嬉しい。」その頃が我が家で一番景気が良かった。また一番貧乏でした。毎日。食堂でかけうど

          母親の思い出!!僕の自伝です!!

          60代から昨日まで

          僕の家族写真です。母親と父親と妻と娘と僕の5人で藤岡市のファミリーレストランココスに行きました。その父親は、介護施設。朝起きたら。オシッコがでない。膀胱に尿が溜まり、お腹が痛くて苦しんでいた。高崎市の内科山名医院へ連れて行く。この先生は、仲が良くて信頼していた、母親は、藤岡市篠塚病院で意識不明。もう2度と家族が集まる事がありません。娘は、埼玉県川越市まで行ったきり帰って来ない。毎日。娘には、帰って来るように説得しているが帰らない。今日も父親と母親が入院したから。帰って来るよう

          60代から昨日まで

          母親の思い出!!

          お母ちゃんは、市光工業東平井工場で働いていた。もうひとつ。藤岡市藤岡の光電機。30代から40代まで。よく働きました。村の中でも働きものでした。確か10年間ぐらいだろう。毎朝自転車で工場まで走っていった。毎月10万円は貰えました。家は、貧乏でした。父親が働かない。それなので母親が働いた。制服は、上着は水色でズボンは忘れました。家の物干し竿にかかっていた。お母ちゃんの口癖は、「お金が貰えるのは、嬉しい。」その頃が我が家で一番景気が良かった。また一番貧乏でした。毎日。食堂でかけうど

          母親の思い出!!

          50代から60代まで

          2年前に、吾妻郡草津町の中沢ヴィレッジから藤岡市に移ってから、慶一は地元企業に就職して様ような職場でせっせと働いた。どの職場も派遣社員でした。朝早くから倉賀野町のマクドナルドで朝食を取り原田のラスク工場で働いた。職場は、5階の製造ライン。フランスパンに白いチョコレートを塗る仕事でした。高崎市のハローワークに行く。仕事がなかった。道路の警備員があるぐらい。仕方がない。わらをも掴む思いで、派遣会社に登録した。そこは、原田のラスク工場

専門の派遣会社でした。最初から短期派遣のバイ

          50代から60代まで