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描いた想いと描きたい想い


 絵を描く時は素直でいたいと思う。

いや、素直はピュアな言い方で恥ずかしい。実際のところは泥臭くいたい、が本音だ。

 自分の感情と向き合って、1番表現したいのは何なのか、構成しているものには何があるのか、感じた色は?感情に名前はあるか、いつ味わったものか。頭の中で湧いてきたものを画面に乗せる。 非常に抽象的で分かりにくい。
そう。じっくりと一つ一つ噛み締めて描きたいものを分析しながら、脳みそをフル回転させる。手はそれをアウトプットするための素晴らしい相棒である。
相棒は迷いながらも納得のいく道を示してくれる。時に喧嘩もするが、実に真面目で誠実である。そして相棒は右腕である。

 何がいいたいか、つまり
納得のいく絵を描くことは並大抵のことでは無い。


モネ展 連作の情景

2ヶ月も経ってしまったが、先日友人と行ってきた。

 クロード・モネは印象派の画家である。
印象派とは↓  こちらで分かりやすく書かれている。
https://mook.casie.jp/articles/impressionists

モネは見たものを緻密に描くのではなく、その場の雰囲気から感じた"印象"を強く絵に込める。当時の流行であった細かく写実的なタッチの宗教画や時代や社会を反映した風刺画とは違い、日常的な風景画を好んだ。自然の空気感や光の描写に力を入れて描いており筆跡も粗く、筆触分割という濃淡や光の移ろいを細かい筆使いで混色せずキャンバスにそのまま置いて描く技法を用いている。
 モネは新人画家の登竜門であった『サロン』に過去2回審査を通ったが、審査基準が変わってからは中々思い通りに進まず苦労したという。1874年、周りの画家仲間でサロンに落ちたという経験のある者達で『印象派展』という個展を開く。
ルノワールやドガ、ピサロなどの作家が参加したが経済的な影響もあり結果的には良いほうに動かなかった。次第に画家達の仲が悪くなり、約10年後モネがサロンに再挑戦した時にはほぼ解散したような状況だった。計8回開かれた『印象派展』は終了後それぞれの画家達は自分で個展を開いたり絵を売ったりと活動範囲を広げていった。

 モネといえば『睡蓮』の絵画達だ。
晩年、足腰が弱くなり遠くに行けなくなったモネは自分の家の庭を数多く描いた。
その中の風景が小さな太鼓橋風の橋がかかり睡蓮や柳、ヒヤシンスが彩る通称"モネの池"だ。
季節が変わるように、変化する自然と自分の身体に真摯に向き合って描いた連作の"睡蓮"は、見るものの心を掴む。

《睡蓮》1897-98年頃 ロサンゼルス・カウンティ美術館
《睡蓮の池》1907 年 イスラエル博物館
(2021年 印象派 光の系譜から)
《睡蓮の池》1918年頃 ハッソ・プラットナー・コレクション

 光の魔術師と呼ばれるモネが画家人生を懸けて、1897年の夏頃から描き始めた最高傑作『睡蓮』の連作達。
描き始めこそ、葉や花の細かな反射の光や水底の暗さを明暗の強さや繊細な筆のタッチで描いているが、年が経つにつれ視力の衰えが現れ始めたのか乗せる絵の具の跡が大きくなり花や葉などは輪郭をなぞるような描き方に変化する。
その大ぶりな筆使いにも色は応えるように、光と自然の空気を生み出している。むしろその筆の粗さが、風で波打つ水面と陽光の優しい煌めきが溶け合い抽象画のように混ざり、見ているこちらも心地よく癒される雰囲気がある。
1枚を描くことに最後まで貪欲であった。



 芽を出し、陽の光を浴びて成長し何年もかけて少しずつ枝を伸ばす。葉や花をつけ鳥や動植物の栄養となり枯れる。そしてまたどこかで芽が育つ。
たくさんの花をつけるには、陽の光に水、栄養となる土が必要だ。人間も、例えば絶対に成功させたい物事に挑む時には覚悟とたくさんの準備がいる。自分のみならず、仲間と助け合い小さいところから少しずつ土台を築いていく。時に雨が降り苦しい場面もある、そうして時間をかけたものが大きく花開き、心からの喜びと達成感を味わう。
絵を描くことだけでなく、会社のプロジェクト、一つの商品、作品、人々の笑顔、どれを取っても並大抵に作れることではない。


 話はズレたが、自然と共に生きたモネの作品は死後も多くの人々に愛され続けている。
今回『睡蓮』をはじめとした連作を多く見られたこと、その背景にあるモネ自身の葛藤と強い探究心を知ることが出来て、ますます"クロード・モネ"という画家を好きになった展覧会であった。

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