青年期の終わり-喪失と再起

思春期の始まりが自らのアイデンティティを探し始めることならば,青年期の終わりはそれまで培ってきたアイデンティティを手放すことかもしれない。壮年期を目前として,喪失感と哀惜とともにそう実感する。
アイデンティティは自分自身が他者にひとりの独立した人間として受け容れられた成功体験の集積として形成される。我々は思春期から他者との境界を意識しはじめ,そこに線引きをしようと躍起になり,時として迷走し,数多の経験を経て結実する。

だが,その成功体験も,結局はある瞬間のある共同体における正解でしかない。そこにおけるもっとも大きな断絶は,学生時代とそれ以降にあるだろう。我々は,学生時代に夏の輝きを浴びて成長するも,また次の時代においては再度一からその正解を探さねばならないのだ。

輝きが大きいほど,そこに執着するのが人の性だろう。これまで積み上げて来たものをすべて精算して,また新たに積み上げようとするのは容易ではない。夏の日差しへの愛惜も,過去の連帯への執着をも乗り越え,再度自らを定義しなおす苦痛は,人の足を止めるには十分すぎるほどに大きな理由だ。

だが,社会からの要求は常にその質を変える。暖かな陽だまりに足を止めることを許してはくれない。だからこそ我々は壮年期を前に,もう一度暖かな陽だまりから先の見えない荒野に踏み出すしかないのだ。思春期の始まりにそうしたように。

その新たな旅路において,かつての陽だまりを進む糧に,かつての輝きを道標として,暖かな陽だまりを再度追い求めていきたいと思う。その傍らで同じように歩を進め始めた敬愛する同志の幸福を祈りながら。

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