『向田邦子ベスト・エッセイ』向田和子編 「手袋をさがし」続けた好奇心

1981年に飛行機事故で亡くなった向田邦子没後40年で、いくつかの向田邦子本が出されているが、これはその一年前に、長女邦子と9歳違いの末の妹、向田和子氏が中心になって編纂したベスト・エッセイ集。これまで読んだものあり、読んでいても忘れていたもの、また初めて読んだものなど向田邦子という女性の人となりが見えてきて面白かった。

向田邦子にとって父親の存在は大きかった。明治生まれの威厳を持ち、家庭での怖い父の姿、一方で子供たちへの愛情を時折見せるエッセイは多くの人々の共感を呼んだ。なかでも有名な『父の詫び状』は素晴らしいが、『字のない葉書』というエッセイは泣かせる。終戦の年の4月に甲府に学童疎開することになった小学校一年生の末の妹に、父はおびただしい葉書に自分宛ての住所を書いて、「元気な日はマルを書いて、毎日一枚ずつポストに入れなさい」と言って渡した。最初は葉書いっぱいの大きなマルが書かれていたのに、次第にマルは小さくなり、やがて情けない黒鉛筆の小マルはバツに変わった。まもなく葉書も来なくなった。妹は百日咳を患い、虱だらけの頭で三畳の布団部屋に寝かされていたという。そんな妹が疎開先から帰ってきた日、父は大声で妹の肩を抱いて泣いたという。「大人の男が声を立てて泣くのを初めて見た」というエッセイは、父の娘たちへの愛と、娘の父へ思いが溢れている。

一方、そんな厳しい父を支えた母のことを書いたエッセイも面白い。東京大空襲の晩に火に囲まれた社宅の家の中で、爪先立ちで半端に歩いていた父に比べ、誰よりも堂々と父のコードバンの靴を履いて「縦横に走り廻り、盛大に畳を汚していた」母の思い切りの良さ(『ごはん』『麗子の足』)。入院している母を子供たちで見舞ったときに、「もうみんなでぞろぞろ来ないでいい」と文句を言っていたのに、別れ際のエレベーターで「有難うございました」と丁寧に頭を下げた母。妹をお供にして初めて香港旅行に行かせたときも、最初は「死んだお父さんに怒られる」と躊躇していた母は、蘭のコサージュを空港の花屋でプレゼントしても、「何様じゃあるまいし、お前はどうしてこんな勿体ないお金の使い方をするの」と機嫌が悪くなったのに、空港の改札口で急に立ち止まって振り返り、手を振るのかと思ったら、深々とお辞儀をしたという話(『お辞儀』)。明治の女性の姿が浮かんでくる。「自分が育て上げたものに頭を下げるということは、つまり人が老いるということは避けがたいことだと判っていても、子供としてはなんとも切ないものがあるのだ」と邦子は綴っている。

学校を出て出版社に勤め、映画雑誌の編集の仕事をしていた向田邦子は、安月給でお小遣いが足りなかった。「テレビの脚本を一本書くと一日スキーにゆけるよ」と仕事を紹介され、スキー行きたさに見よう見真似で脚本を書いたそうだ。「私は、至って現実的な人間で、高邁な理想より何より、毎日が面白くなくては嫌なタチである。勤めはじめて七年目。ぼつぼつ仕事に馴れてきて、スキーでうさばらしをしていたのが、その資金かせぎで始めたアルバイトが段々と面白くなってしまったのだ」と脚本家になった経緯を明かしている。「女が職業を持つ場合、義務だけで働くと、楽しんでいないと、顔つきがけわしくなる。態度にケンが出る。どんな小さなことでもいい。毎日何かしら発見し、「へえ、なるほどなあ」と感心して面白がって働くと、努力も楽しみのほうに組み込むことが出来るように思うからだ。私のような怠けものには、これしか「て」がない。」(『わたしと職業』)

『ヒコーキ』というエッセイでは、「飛行機がいつも怖い」「離着陸の時が特に嫌」だったそうで、それでも「気どられまい」と冗談を言って強がっていたそうだ。飛行機事故で亡くなっただけに、なんだかせつなくなる。

食器や食べるものへの興味が尽きなくて、値段が高くても気に入った器は買わずにいられなくなり、美味しいものはとことん料理で再現してみたりする。『薩摩揚』や『水羊羹』、『幻のソース』、『お弁当』など「食」にまつわるエッセイも楽しい。中央線の中野駅付近で、電車の窓からライオンを見たという『新宿のライオン』や、ちょっとした嘘やごまかしが、すぐにバレてしまう「天の網」に捕まってしまうという『天の網』なども、日常のなかの人生の機微を描いていて面白い。

『黄色い服』と『手袋をさがす』いう最後を飾る二つのエッセイは、彼女の性格と、彼女の性格を形作った親の影響をよく表している。7歳の幼い頃、デパートの子供服売り場での体験。「お前の好きなものを選びなさい。ただし、今年は一枚しか買ってやらないよ。デパートに迷惑かけるからあとになって泣いて取り替えることはできないのだから、ようく考えて決めなさい」と親に言われ、子供服売り場から親はいなくなって、7歳の子が一人で選んでいたという。迷いに迷って選んだ服は黄色い服で、今まで一度も買ってもらったことのない奇麗な色の、フワッとした夢のような服だった。それを見た父が「カフェの女給みたいだな」とつぶやき、その服を着るたびに父は機嫌が悪かったそうだ。「自分で選んだから文句を言うな、と釘を差されているので、これで我慢するよりほかはなかった。」「責任をもって、ひとつを選ぶ。選んだ以上、どんなことがあっても、取り替えを許さない。泣き言も聞かない。親も大変だったと思う。私が選んだものを、高いから嫌だとは一度も言わなかったが、保険会社の支店次長だった父がそうそう高給を取っていたとも思えないからである。」「はじめて黄色い服を選んで、四十年以上もたっているが、この頃になって、これは洋服だけのことではないと気がついた。職業も、つき合う人間も、大きく言えば、そのすべて、人生といっていいのか、それは私で言えば、黄色い服なのであろう。一シーズンに一枚。取りかえなし。愚痴も言いわけもなし、なのである。」(『黄色い服』)

最後を飾る『手袋をさがす』というエッセイは彼女そのものと言っていい。向田邦子は22歳の時、「気に入った手袋が見つからなかった」ために、ひと冬を手袋なしで過ごしたそうだ。「ぜいたくで虚栄心が強い子供だった」彼女は、「いいもの好きで、ないものねだりのところ」があった。「もっと探せば、もっといいものが手に入るのではないか、とキョロキョロしているとこころ」があった。「おまけに、子供のくせに、自分のそういう高望みを、ひそかに自慢するところがあって——ひとくちにいえば鼻持ちならない嫌な子供だった」らしい。「爪を噛む癖」もそんな欲求不満が原因かもと分析し、若い頃はとにかく「苛立っていた」という。「今のうちに直さないと、一生後悔するんじゃないのかな」と、当時の上司に注意され、寒い冬の帰り道、歩きながら考えたという。ほどほどのところで満足し、「平安」と「感謝」とともに生きていくこと・・・。しかし、彼女は「このままゆこう」「ないものねだりの高望みが私のイヤな性格なら、とことん、そのイヤなところとつきあってみよう」と決めた。そして彼女は、教育映画を作る会社から映画雑誌の編集の仕事をするようになり、ラジオの放送作家、テレビドラマの脚本と仕事を広げていった。ひと頃、「朝九時から出版社に行き、昼まで一生懸命デスクワークをして、昼食もそこそこに試写を一本見て、朝日新聞社の地下の有料喫茶室へゆき、ラジオの原稿を書き、夜は築地にある週刊誌の編集部へ顔を出し、夜は近所の旅館にカンヅメになって十二時過ぎまで原稿を書く、という生活」をしていたこともあるそうだ。そのあまりの慌ただしさに、「私は何をしているのだろう」と銀座の交差点を笑いながら渡っていたら、「何がおかしいのか」と真顔で聞かれたこともあったという。「もっと、もっと——好奇心だけで、あとはおなかをすかせた狼のようにうろうろと歩き廻った二十代」。そして、テレビドラマ一本に絞って、七年。「たったひとつ私の財産といえるのは、いまだに「手袋をさがしている」ということなのです。どんな手袋がほしいのか。それは私にもわかりません。」(『手袋をさがす』)

結局は「好奇心」の強さに尽きるとも言える。それだけの才能を持っていたから、現状に飽き足らなかった。「もっと、もっと」と高みを目指す。それを人は「才能」と呼ぶのかもしれない。頑固で意地っ張りで、楽しいことを追い求め、美味しいものと気に入ったものだけを身のまわりに置き、面白がることを基準にしながら、ステキな「手袋をさがし続けた」・・・。

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