ジャック・ベッケルの映画『エストパラード街』の「振り子の運動性」を濱口竜介監督が語る

この映画は、札幌で開催されたクリエイティブスタジオ、シネマシリーズ5「映画ヘと導く映画~映画監督・濱口竜介が選ぶ傑作2作品上映と特別講演」という催しで観たものだ。濱口竜介監督によって選ばれたジャック・ベッケル監督の恋愛喜劇だ。あまり上映機会がないので、見た方は少ないだろう。ジャック・ベッケルはフランス映画の父、ジャン・ルノワールとヌーヴェル・ヴァーグの間の世代に位置する監督であり、ヌーヴェル・ヴァーグ世代の兄貴分的存在。ハワード・ホークスにインタビューしていたり、アメリカ映画的なスタイルを持っている監督だと濱口氏は解説する。アメリカのハリウッド映画が確立したコンティニュイティ、ショットとショットの連続性を見事に使っているのだと言う。

夫の浮気を疑う妻の家出、そして妻を連れ戻そうと必死になる夫アンリ(ルイ・ジュールダン)や妻の友人、そして妻のフランソワーズ(アンヌ・ベルノン)の揺れ動く心理、アパートの住人のシャンソン歌手の若いロベール(ダニエル・ジェラン)からの求愛などを描いた恋愛コメディである。最後は元サヤに収まる恋愛ものの常道パターンではあるのだが、登場人物みんながどこかフラフラしていて、心があっち行ったりこっち行ったり右往左往する。誰もが浮気心があり、心理は不安定で、ちょっとしたキッッカケで別の方向へ動き出したりする。それぐらい心理描写は分かりづらい。

濱口氏は、「振り子の運動性」のある映画だと解説していた。上手から下手へ、下手から上手へ、あっちに行ったりこっちに行ったり、運動が右に左に振れる。ハワード・ホークスのように一貫していないし、揺れる動きそのものを描いている。だから登場人物の心理描写は分かりづらい。あえて描いていない。動きや運動だけを描いているとも言える。

コンティニュイティの話で言えば、フランソワーズが家出して借りるアパートの下見に来た場面のロケからセット、階段を昇って廊下へ至り、部屋に入って借りることを決めるまでのまでのショットの連続性の見事さを指摘しつつ、窓辺のシーンの重要さを指摘する。この映画では、何度も窓から観るシーンが繰り返される。フランソワーズの友人が窓から、夫の浮気のキスシーンを見る場面。家出する妻のフランソワーズを夫が窓から見る場面。前夜、悲しんでいた妻のフランソワーズは、明るく荷物を積んだ車から窓の上の夫に手を振る。そして、アパートを借りに来たフランソワーズが部屋の窓から、隣の学校の校庭を眺め、子供たちが駆け出すのを見る場面、またはラストのロベールが、窓から夫のアンリが車で去って行き交通事故に遭うところ、さらにフランソワーズと仲直りのキスをする場面などを窓から見て、「もう戻ってこない」と諦める。「窓から見ること」が何度も繰り返され、その度に下手から上手へ、上手から下手へと車は行ったり来たりする。

私がもう一つ気になったのは、アパートの階段と扉をノックする場面の繰り返しである。アンリが、ロベールが、何度も階段を昇って来て、扉をノックする。入れ替わり、立ち替わり。特に家出したアパートの廊下と階段は効果的に使われている。何度もノックして、騒ぎ立て、アパートの住人たちが文句を言い、監視する。妻の友人の家でもまた、ソワソワとアンリを夕食に招待して浮かれていると、夫が扉をノックして帰ってきて、アンリもまた花束を抱えて扉をノックする。男たちによって何度も階段が昇られ、扉がノックされる。その繰り返し。フランソワーズが仕事先にしようとした店のオーナーも、夜にフランソワーズにドレスを着させて楽しんでいるところを、従業員のノックと侵入で邪魔される。

フランソワーズもアンリも、フランソワーズの友人も、登場人物たちはみんな心理がコロコロと変わり、恋心もコロコロと右往左往し、ドタバタ動き回っている。その心理の曖昧さを、フランソワーズのこんな台詞でジャック・ベッケルは補助線を引いてくれていると濱口氏は指摘する。
~~~~~~~~~~~~~~
「葬式で故人の死には驚くような言葉があり、人の死に稀に驚かされるということもある。でも不思議ではない。」
~~~~~~~~~~~~~~
家出を決意した悲しみに暮れる夜の夫との会話のなかで、フランソワーズは突然こんなことを言い出す。つまり、人間の曖昧さ、不確かさ、謎。アクションで物語を語り、人間の謎めいた存在を描いた不思議なロマンティック・コメディが、ジャック・ベッケルの『エストラバード街』という映画なのだ。

オープニングの食卓で妻のフランソワーズが夫の皿からものを取って食べる夫婦の食事シーンから、奇妙なおかしさがある。特にフランソワーズ役のアンヌ・ベルノンのコメディエンヌぶりがなんとも楽しい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?