映画『地獄の花園』暴力の連鎖を超えて

ヤンキー漫画をOL設定にして実写化したようなくだらないバカバカしい映画なので、特にレビューとして書くようなこともないのだが(笑)、ちょっと暴力について思うところもあったので書く。

映画はバカリズム脚本ということで見た。バカリズムの才能は、『架空OL日記』や『殺意の道程』で感じている。劇的ではない、あるいは劇的な世界の裏側にある日常、そこにある些細な会話に中に可笑しなドラマを見つけられる才能があると思う。

ごく普通のOLである永野芽郁が、OLたちの派閥闘争のケンカに明け暮れるヤンキーOLたちの争いに巻き込まれる話だが、実は普通のOLに見えていた永野芽郁が誰よりも強かったという物語。しかし、宿敵となった広瀬アリスに勝利した永野芽郁だが、恋愛において広瀬アリスに完敗した・・・というオチで終わる。

派閥闘争はどこの組織でもあることであり、力で上に立つ権力闘争は、会社でも政治の世界でもイデオロギー対立でも、国家間の戦争にまで発展する力の基本原理である。強いものが上に立つ。「マウントをとる」という言葉を流行言葉だが、関係においてつねに優位に立とうとする心理は、動物も人間も同じこと。誰かが力でのし上り、ボスになり、上下関係で組織を率いていく。それをOLヤンキーたちのケンカという漫画のような設定で描いている。バカバカしい派手な特攻服と髪型・メイクで女優たちが大立ち回り。CGも駆使しながら、激しいケンカアクションと淡々としたバカリズム演じる上司のギャップ。強い奴の上にはもっと強い奴が次々と現れ、グループを支配下に収めていく。サル山のボスや戦国時代から変わらぬ武力闘争である。

広瀬アリスは、当初、妹の広瀬すずの活躍の後ろに隠れ、本人もコンプレックスもあったようだが、持ち前の明るさで開き直り、今や妹を追い越すぐらいの人気ぶりである。この映画でも、次々とやっつける姉御役がハマっている。菜々緒、川栄李奈、大島美幸、小池栄子、そして遠藤憲一の女装まで、役者のバカバカしい扮装を楽しむ映画だ。それだけだと言ってもいい。

暴力が暴力の連鎖を生むのは、今のウクライナで起きている戦争を持ち出すまでもなく、太古から人間が愚かにも繰り返してきた宿命である。ルサンチマン、復讐、仇討ち、自己防衛と過剰暴力。仲間、組織、民族、宗教、国家、様々な共同幻想から人間は自由になれない。その暴力対立から自由になろうとして、争いのない普通のOLとして暮らそうとしていた永野芽郁が、追い込まれて発揮してしまう力。生まれてしまった力は、別の力によって打ち倒そうとする力学が生まれる。力によって支配される恐怖から自由になれないからだ。ならば、力を発揮しないでいられる世界はないものだろうか。暴力(ケンカ)という関係とは別の、恋愛という関係を持ち出すことによって、別の価値観を示唆して映画は終わる。権力(暴力)という単一の価値観とは別の次元の価値観が世界にも必要なのだろう。それは宗教や文化や芸術などもそうだろう。単一の価値基準で判断するのではなく、それぞれの価値観を認め合う世界は、いつになったらやって来るのだろう・・・。そんなことをバカバカしいヤンキーOL映画を見ながら考えた次第である。

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