映画史に残る傑作『奇跡』は、あらゆる価値観が許容される奇跡の空間の現出

映画史に残る傑作とされるカール・テオドア・ドライヤーの『奇跡』を映画館でやっていたので観た。デジタル・リマスターで蘇る珠玉の4作品「奇跡の映画 カール・テオドア・ドライヤー セレクション」というやつだ。他に『裁かるるジャンヌ』『怒りの日』『ゲアトルーズ』も上映されていたが、この『奇跡』しか観られなかった。この『奇跡』は、かつてどこかで観た記憶もあるのだがすっかり忘れてしまっていた。

オープニングは、朝早く、自らをキリストだと思い込んでいる狂気の次男ヨハンネスが丘の上へと向かう場面が描かれる。窓からその姿に気づく三男アナス。それを追いかける丘への階段。白く風に揺れる洗濯物。背景の空と何もない草原。デンマーク・ユトランド半島の寒村で大農場を営むボーオン一家の人間たちが次々と登場して、その丘への階段を駆け上がっていく。異端である反ルター派の父親モーテン(ヘンリック・マルベア)、無神論者の長男ミッケル(エーミール・ハス・クリステンセン)。同じ丘への階段の風景が繰り返される。そして丘の上に立つキリストであるかのようなヨハンネスの姿が仰角のカメラで映し出され、神の言葉が告げられる。そんな象徴的な映像で始まるこの奇跡の物語は、ボーオン一家の家の中が主な舞台だ。カメラは右へ左へとパンを繰り返しながら、登場人物を追いかけ、部屋から部屋への人物の出入りを長回しで映し続ける。

結婚したい若いカップル、三男アナスと恋人のアンと父親同士の宗教的な対立が描かれる。デンマークの厳格なプロテスタントの流れをくむルター派と反ルター派。喜びと悲しみ。生と死。宗教的価値観をめぐっての争いがある。そして無神論者の長男と、聖母のような妊婦の妻インガー(ビアギッテ・フェーダーシュピール)。さらにキリストを名乗る狂者の次男とミッケルとイーガンの無垢なる愛娘.。生き方も価値観もバラバラな者たちが集まっているのだ。そしてその対立と葛藤。そして死の試練が描かれる。父親同士が争っている時に、妊婦のイーガンが産気づくも、子供は死産となり、イーガン自身も生死の淵を彷徨うのだ。これは宗教的試練なのか?神を信じない報いなのか?神の定めなのか? 

医者が手当てをして病状が回復し、医者と牧師がボーオン家から帰っていくのだが、再び病状が一変し、イーガンは息を引き取る。その時の室内に照らし出される車のライトの光の演出が素晴らしい。狂気のヨハンネスの聖書の言葉とともに、魂が生と死の間を超えていくような神々しい瞬間だ。牛の声や車の音、光や音の演出でカメラで映し出されない部屋の外の世界が描かれる。イーガンが息を引き取る時も、部屋の中を映さずに、部屋の外の男たちを映し続けるカメラ。そして、「奇跡」が起きる場面も同じように限定した空間にカメラはとどまり続ける。その白い室内と窓から射し込む光の美しさ。

限定され抑制された空間演出で、あり得ない奇跡の世界を描き出す映像。いろんな価値観の人たちがぶつかり合うある種ドタバタとした家庭劇だが、その様々な価値観の人々を許容する空間が現出する。神を信じる者も信じない者も、価値観の違う宗教もなんでもありの人々が争いもなく共存できる奇跡の空間。その精神的深みを獲得した「聖なる映画」と言えるだろう。

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