公学校と小学校。日本と台湾で生活するものとして。

日治時代の初等教育における台湾の教育制度は基本的に公学校と小学校に分けることができるだろう。

統治初期には、清の時代の名残で科挙を目指す人々による漢文などを教授する私塾が一定数存在していたが、段々と減少していき、台湾人子女が通う公学校と日本人子女が通う小学校の2つがその教育の一端を担っていった。

公学校は、その来歴から理解できる通り、台湾人に日本語を教育することが目的であった。

そこには、人種に基づく差別は勿論、初等教育が終了したあとの進路についても大きな制限がかけられており、公学校出身者が中学校や高等学校に進むには小学校出身者以上の狭き門をくぐらなくてはならなかった。

この様な教育の植民地主義は、約80年前という過去にありながら、私に大きくのしかかっている。

2024年の1月、私は冬休みの期間を利用し、日本に一時帰国した。そこで、父親が日本統治時代の台湾で教育を受けたという人に出逢った。

その人の父親は台湾の小学校の出身者だという。

あまり詳しいことは聞きそびれてしまったのだが、世代的には戦争が終わり、日本に帰国した人なのだと思う。

ー小学校

この言葉を聞いた時に私は台灣近現代史の授業を思い出す。

台灣近現代史の授業の中で紹介された台灣の教育制度の歴史の中で、教授が


「私の両親もこういった公学校に通っていました。」と紹介されたのである。

それは林茂生の子息が小学校の入学を認められなかったという文脈の後に語られた言葉であった。

私には、公学校と小学校という差別的な構造に対する複雑な感情を読み取ったのであった。

小学校に通っていたものと、公学校に通っていたものの子どもたち。

私は父親が小学校に通っていた人の発言を批判したい訳ではない。違うのだ。

そうではなく台湾と日本に生きるものとして、その矛盾と植民地主義を受け止めて生きていかなくてはならないという私自身の決意の表明をしたいのである。

この矛盾した植民地主義の残穢に対面した時、我々は往々にして過去を否定したくなるのだ。

しかしそれは、公学校は台湾人の教育のレベルを格段に上昇させ、台湾の近代化に成功させた。という欺瞞、すなわち植民地主義の再生産での否定でしかありえないのである。

この辛い植民地主義に対面した時、私は何を思うか。向き合わなくてはならない現実ではないだろうか。


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