書く書くしかじか♯01 1年生クラスに入って思うこと
【臨時の1年担任をやってみた】
3学期に入ってから、担任の先生が体調を崩した1年生のクラスに入っている。1日に5時間フルに入るときもあれば、1時間だけの時もある。2週間近く入って薄っすらと感じてきたことをつらつらと書いてみる。
【1週目 ただただ疲れた】
最初の1週間は、ただただ疲れただけであった。
朝の会、授業、給食、そして帰りの会、すべてにおいてクラスのルールが今ひとつ不明。
理解しているのは子どもたち。分からないのは私だけという「どアウエイ」状態。
立場を変えれば、「何をしなければ、させなければならないか」を理解しているのは私だけ。突然、来たおっさんが何をしようとするのか分からないのは子どもたち。子どもたちも「どアウエイ」状態。
「どアウエイ」と「どアウエイ」が重なれば双方に疲れが出るのは当たり前。それを結ぶのが「言葉」なのだが、いかんせん、私には、1年生仕様の言葉遣いが装備されていない。言えば言うほど、「それって何?」、「どうするの?」の質問ラッシュ。
どちらも手探りで終わったような1週間であった。私的には「惨敗」だった。
【2週目 言葉を削り、任せてみた】
1週目の惨敗をもとに、主に授業における対応を考え直した。
「漢ド」、「音読」などやることを板書し、何するか、行動レベルの言葉で示す。
そして音読や数唱(数を読んでいく)活動から授業に入ることを行った。
活動だから、教師が褒めることもできる。教科書を持っても褒めるポイント、教師の方を見るだけでも褒めるポイント、読んだりしたら褒めるちぎる。
活動だから、子どもたちが目で追える。教師が何回、十何回(おおげさか)も消えてしまう「言葉」で言うより、身近なお手本があるので、子どもたちは、それを見て動く。
活動だから、動きが重なっていくうちに一体感が出る。一体感が重なればほのかな連帯感が生まれる。苦戦している子がいたら声をかける等の姿が見られる。
2週目になったことも含め、私と子どもたちの授業における関係性がスムーズなものになってきた。
【思うに・・・】
昔からそういう傾向があったのであるが、私は「言葉」だけを使って子どもたちを「こうしなければならない」という方向づけを行っていたのだ。
その焦りにも似た思い、30年ちかく教員をしている変なプライドが強く出た。そこが子どもたちとのギャップを引き起こし、それを調整するためにいらないエネルギーを使い、疲労を覚えたのと思う。(加齢も否定しないが)
2週目は、子どもたちを「信頼」し、子どもたちに「任せる」部分を増やしてみた。いい時は認める。うまく行かない時もできるだけ、加点的に認める。修正が必要なときだけエネルギーを使うようにした。
不思議なことにいい雰囲気ができつつあるような気がした。(一過性かもしれないが)
自分は、これまで小学1年生を担任した体験がない。その体験のなさが、対応スキルの無さとなり、妙な疲れとなると思い込んでいた。
そうではない。自分になかったのは、相手(今回であれば1年生の児童)を信頼することだったのではないか。
1から10までこちらでコントロールするのでなく、ある程度の「任せる」という信頼感が足りなかったんだろうなあ。できない、不安と訴えた時、初めてこちらが手を差し伸べる。こんなスタイルがいいのかもしれないと思えた2週間目であった。
3週目は・・・ないことを願いたい。
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