嫁十夜(第二夜)

 こんな嫁を見た。

 彼女の母親と大きな声で話しながら、台所で共に天ぷらを揚げている。どうやら、天ぷらを揚げる順序や時間について折り合いがついていないようだ。

 秋の大型連休を使って妻の実家に里帰りをしていた。結婚後、初めての帰郷である。私は、ダイニングで義理の父と共に日本酒を呑んでいた。目の前には酒のあてとして、刺身や煮物が大量に用意されており、酒は進むが、会話は一向に盛り上がってこない。せめて彼女か彼女の母親がいれば――と、台所を覗きこむが、大きな鍋で湯を沸かしつつも、懸命に葱を刻んでいる。まだまだ料理は落ち着かないようだった。盛り上がらない間を埋めるために、必要以上に酒が進む――その結果、私はすっかり酩酊してしまっていた。

「揚げたて、そして茹でたてです。一人前づつしか茹でれないから、あなたから食べて」

 彼女の手によって、テーブルの真中には天ぷらの盛り合わせが置かれ、私の前にはせいろに盛られた薄灰色の麺が用意された。お父さんの手打ちよ、昼過ぎから打っていたみたいだから――と一言付け加えてから、彼女はふただび台所に戻っていた。なるほど蕎麦か――これは美味しそうだ。いただきます、と義父の顔を伺いながら、箸をとった。さて早速、海老の天ぷらをそばつゆでいただこう(僕は天ぷらをたっぷりのつゆに浸して食べるのが好きなのだ)と、箸を伸ばした瞬間にふと思った。

 ――はじめに天ぷらを食べて良いのものだろうか。

 先ほど彼女の話によると、これは義父の「手打ち」であり、いわば趣味なのであろう。趣味と言うのは凝れば凝るほど、相手にも理解を求めるようになる――ビバップの演奏を楽しむにはジャズスタンダードの知識が必要であるように――今まさに私は、蕎麦の正しい味わい方を求められているのだ。最初に天ぷらを食べるのは正しい味わい方ではないことは、先程より強張った義父の表情を見れば明らかである。ましてや、めんつゆにつけるなど言語道断であろう。

 ――失態をおこなす所であった。妻との結婚生活は、おおむね良好な関係を築いており(他人が共同生活をする上わけだから、当然多少のトラブルはあるけれども)、ここで義父を敵にすることは望むところではないのである。さて、仕切り直しを行いたいわけだが、ここで伸ばした中途まで伸ばした箸戻すのも不自然である。そこで私の右手は、なるべく自然な曲線を描きながら、天ぷら皿の脇に起これた薬味に向かうことにしたのである。

 薬味は「わさび」「刻み葱」「ノリ」の順で並んでいる。さて蕎麦の正しい味わい方という観点で、薬味は何が必要なのであろうか。三択である。わさびは鼻がツーンとなるので、蕎麦の香りが楽しめなくなりそうだな。うん、これは除外。ネギも同様の理由で除外であろう。残るはノリか。まてよ……先程は三択と考えたが、当然の事ながら全てハズレもあるのか――薬味を用意したのは妻であるが、これは家族ぐるみで私を試すトラップなのではないかと訝しがってしまう。えーい、考えても仕方ない。今更箸を引っ込めるわけにもいかないのである。意を決して、均等に刻まれたを海苔をひとつかみ掴み、おそるおそる義理の父の顔を見上げると、わずかに笑みが見える。良かった――海苔が正解だった。

 安堵したのもつかの間、この海苔達をどこに着地させようか。蕎麦の上か、あるいはめんつゆの中だろうか。酔った頭で思い出す――確か、ざる蕎麦ともり蕎麦の違いは、ノリの有り無しだと効いたことがある。蕎麦屋のショーウィンドウ飾られている蕎麦を思いだす。海苔はどこだったろうか――せいろの上だ。

 箸が戻ってきた。蕎麦というのは、これほどまでに気を使う食べ物であったのだろうか。

 さて、ようやくせいろの上の蕎麦に取り掛かろう。いつまでも手を付けないのは不調法だ――義父も不思議な顔をしてこちらを見ている。蕎麦の取り方にも注意だ。おそらく、大量につかむのは行儀が歩いので、ほんのひとつかみ蕎麦を取り――先ほどのノリもくっついてくる――右手前にある麺つゆの上部まで持ってきた。

 箸先を汁につけるな

 蕎麦の作法としてしてこのようなことを聴いたとがある。なるほど、蕎麦の風味をまず味わえということであろう。決して、ひたひたに浸してはいけない。3センチほどをつけて(これでも普段に較べれば格段に少ない)、さっとすすろう。そして一言「香りが良いですね」とかいえば問題ない――あれ、香りか、やっぱり香りが大事か……だとすれば、まず一口目は、そのまま食べた方がいいのでは。料理番組では、茹でたての麺をそのまま食べる料理人を見たことがあったような――いやあれはパスタか。

 中空に上げた状態で私の右手は静止した。その手の持つ箸の先からは、行き場を失ったひとつかみのソバが垂れている。その蕎麦をみつめる私の視線の先には、義父の存在がある――が、その表情はソバの枝垂れに見え隠れしており確かめることができない。蕎麦、そば、ソバ、SOBA――果たしてどれが正解だ。次第に混乱さが増してきた――

 ――せいろに盛られたソバが、身をくねらせた。そして、すこし甲高い声で「さあ、食べてみよ」と聞こえた。ソバの重なりの一部がまるでいきものの口のように動いた。あー食べてやるさ、と意気込むと。「麺つゆと共に在れ!」とノリがふわっと舞うと同時に、手元にある麺つゆががカタカタっと動いた。続けて「薬味と共に在れ!」と3つの薬味がそれぞれふるふると暴れ、皿から飛び出した。やめてくれ、僕は客人なんだ、テーブルを汚したくないんだ。最後に「天ぷらと共に在れ!」といういうと、大皿がずずずーずずずーと少しづくこちらに近づいてくる。いつのまにか、テーブルにある全てのものから、ソバッソバッソバッという合唱が聞こえてきた。なぜなんだ、ソバのくせに……そこまで僕を苦しめるのだ。ソバッソバッソバッ――

 ――落ち着け、自分。これは蕎麦なんかじゃない。きっと、蕎麦に似た何かなんだ。だってそうだろう、一言も蕎麦ですという説明なんて受けていない。ただ手打ちだからとしか聞かされていない。茹でたてだからとしか聞かされていない。これが蕎麦なんて証拠は一つもないんだ。だから――僕は好きに食べていいんだ――。

「何やっているの?早く食べなよ」

 彼女は自分の分のせいろを持ってきて、私の隣に座ると、「いただきます」の声とともに、おもむろに天ぷらを掴み、麺つゆにたっぷりつけ、美味しそうに食べた。

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